そのあまりの重さに立っていられなくなって、鈴はまるで紙のようにグシャリとそのまま潰れた。耳に残ったのは菫の泣き叫ぶような悲鳴だけだ。
目を覚ますと、そこは知らない白い部屋のベッドの上だった。辺りを見渡してもどこにも両親が居ない。
「dad? mum?」
問いかけても返事がなくて、ふと思い出す。
そうだ、鈴の両親はもうこの世に居ないのだと言う事を。そして鈴は長い船旅を経て叔父の家に引き取られたという事も。
その事実を思い出した鈴はすすり泣いた。何故か背中が焼けるように熱くて痛い。
その後、鈴は自分の置かれた状況を知った。背中に大きな傷が残った事も。
頭を強く打ったせいか、鈴の記憶は佐伯家に引き取られたという事実しか残っていなかったが、誰かが泣き叫びながら鈴を呼ぶ声だけがいつまでも鈴の記憶から抜け落ちずにいた。
あれから8年。鈴はいつの間にか佐伯家の人たちとの会話をする事がほとんど無くなった。この家での鈴の立ち位置は良くて小間使だ。
雨の前にあの時の傷が痛むのも早くに両親を亡くしたのも、佐伯家にとって鈴が疫病神扱いだと言う事も全てを受け入れ、鈴はそれでも引き取ってくれた佐伯家に恩返しをするべく、屋敷の事をこなしていた。
でもたまに思うのだ。もしも両親が生きていたら、こんな事にはならなかったのだろうか。
もしも誰か一人でもこんな鈴を心から受け入れてくれるようなそんな人が現れたら、また鈴は心の底から笑う事が出来るようになるのだろうか、と。
「いつか、そんな人に出会えるのかなぁ」
足元を見つめながら鈴は呟いた。足元には名も知らないような小さな花が風に揺れていた。
♤
鈴に出会う前、千尋がまだ都に居た頃の話だ。
「千尋。千尋! おい、もう三日目だぞ!? いい加減部屋から出てこい!」
栄の声が部屋の外から聞こえてくるが、千尋はそれを無視して布団の中に潜り込む。約半年振りの二週間の休みだ。
正直に言うと、休みなんてあっても何をすれば良いか分からない。
千尋は部屋の中に積み上げられた本を適当に一本抜き取って、うつ伏せになって紐を解き広げた。
龍が書いた哲学書、文芸、技術書、歴史書、園芸書、何でも適当に読み漁っては使うこともない無駄な知識ばかりが増えていく。いつかこれが何かの役に立つことがあるのだろうか。
この頃にはまだ地上では書物が無く、千尋が読むのは専ら同胞が書いた物だけだった。
龍は二週間ぐらい食事などしなくてもどうという事はない。休みの日の千尋が部屋から出るのは風呂の時ぐらいだ。
「千尋! いい加減にしろ!」
その時、部屋の襖が開いてとうとう栄が部屋に乗り込んできたかと思うと、布団を無理やりめくられた。
「何ですか」
何の感情もない声で言うと、栄が仁王立ちで千尋を見下ろしてくる。
「何ですか、じゃねぇんだよ! 三日前からずっと引っ切り無しに客が来てんだ! 流星様、千眼様、謙信様、初(うい)様! お前、誰なら出てくるんだよ!?」
「さあ? 運命の番でも見つかれば、流石の私も毎日部屋から出るかもしれませんね」
見つかるはずもない相手を口に出すと、栄は苦虫を潰したような顔をする。
「少なくとも都には居ないんじゃねぇか」
「それは残念」
微笑んでまた本に視線を移すと、本を栄に取り上げられた。
「駄目だ。初様がこの3日間毎日お前を尋ねてきてる。今日は逃さねぇぞ!」
「……毎度ご苦労な事ですね」
幼馴染の初は休みになる度に毎度こうして尋ねてくるが、一体何がしたいのかさっぱり分からない。
尋ねてきたかと思ったらどうでも良い高官達の噂話をひたすらして帰っていく。そのためだけに時間を割くのは馬鹿みたいだ。だからこうしていつも居留守を使うのに、結局こうして栄に引っ張り出される。
千尋は仕方なく起き上がり着替えると、髪をゆるく結んで部屋を出た。
居間へ行くとそこには初が優雅にお茶など飲んでいる。
「千尋、ようやくお籠りを止めたの?」
クスクスと口元に手を当てて笑う初を見て多少は腹も立つが、そんな事は一切顔に出さずに微笑む。
「ようやく取れた休みですから積み上げている本を消費しようと思ったのですよ。それで、何か用事ですか?」
暗にやる事があるのだから帰れと遠回しに伝えるが、初にそんな事は通じない。
「そうなの? でもそれなら夜にすればいいわ。せっかくのお休みなのにお昼から部屋に籠もっているのは良くないと思うの」
「そうですか? 私にはとても有意義な休みの過ごし方です。行動的なあなたとは合わないですね」
にこやかに言うと初は一瞬頬を引きつらせたが、すぐに微笑んだ。
「でも人は変わるものだわ。いつかあなたも行動的になる日が来るかも知れないわよ?」
「そうでしょうか。この年齢までこうだったのに、ある日突然変わるでしょうか? 少なくとも今はまだ変わりませんね。それで、要件はなんです?」
口調はあくまでも穏やかに。
けれど早く帰ってくれと伝えると、ようやく初は困ったような顔をして肩を竦めて見せた。