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第406話

 鈴が佐伯家に引き取られたのは8歳の時だ。

 およそ三ヶ月もかけてイギリスから日本へとやってきた鈴は、両親を失った悲しみと言語の壁、そして少しばかりの期待に胸を膨らませていた。

 鈴を引き取ってくれたのは母、菊子がよく話していた叔父の勇で母は兄弟の中でもこの勇と一番仲が良かったらしい。

 勇はとても優しくて両親はこの勇が大好きだったといつも言っていた。

 けれど日本に着いて鈴を迎えに来てくれたのは、勇ではなく勇の妻の久子で、久子は鈴の明るい髪と青い目を見るなり忌々しげに睨みつけてきた。

「先生に似ているのは髪と目の色だけじゃない。せめて男児だったら随分マシだったのに」

「……」

 はっきりと聞き取れはしなかったが、恐らく久子はそんな事を言っていたような気がする。誰かにこんな事を面と向かって言われた事がなかった鈴は、少しだけショックだった。

 周りを見渡すと鈴のような髪の色や目の色をしている人はおらず、皆着物だ。この時の鈴はだから久子にこんな事を言われたのだろうと思っていた。

「叔父さん、どこですか?」

 たどたどしい日本語で久子に問いかけると、久子はこちらを見下ろして冷たい口調で言う。

「佐伯家ではね、私の許可が無いと口を利いてはいけないの。覚えておきなさい」

「……はい」

 怖い人だ。鈴は久子の事をそんな風に思ったのを覚えている。

 佐伯家は立派な門構えの大きな屋敷で、鈴はそのあまりの立派さにしばらく屋敷を見上げて固まっていた。そんな鈴の腕を乱暴に引っ張るのは蘭だ。

「早く入りなさい! 誰かに見られたらどうするの!」

 久子と同じような口調の蘭に鈴は頷いて屋敷の中に入ると、柱の影から誰かがこちらを伺っている事に気付いた。

「あの子は誰ですか?」

 蘭に問いかけると、蘭は柱の影を見て見下すような目で言う。

「ああ、菫よ。私の一応妹」

「……妹……菫……」

 ぽつりと言うとそれが聞こえたのか、後からやってきた久子が高笑いをする。

「やっぱり低俗な女の娘同士気が合うのかしらね? ああ、嫌だ嫌だ。蘭、そんなのと口を利くんじゃありませんよ」

「はーい、母様」

 はしゃいだ様子で久子と蘭は屋敷に入っていった。

 庭先でポツンと取り残された鈴はまだこちらを伺っている菫にとりあえず笑いかけると、菫はパッと表情を輝かせる。

「タッタちゃんにそっくり! 父様ー! タッタちゃんが動いてるよ!」

 何かよく分からない事を叫ぶ菫に鈴が首を傾げていると、奥から菊子によく似た男性が顔を覗かせた。

「mum……」

 思わず鈴が声を漏らすと、それを聞いて男性は草履も履かずに縁側を飛び降りてきて、鈴を力一杯抱きしめてくれる。

「鈴! よく来たな、鈴! 大丈夫だったか? 何か困った事は無かったか? 腹は減っていないか? 何か欲しい物はないか?」

 涙声で鈴を抱きしめて早口でそんな事を問いかけてくる勇は、菊子の言う通りやはり優しい人だった。

 勇は鈴の頭をこれでもかというぐらい撫でて、菫の事も紹介してくれた。

 菫は最初こそ恥ずかしそうにしていたものの、一週間もすればすっかり鈴の姉のように振る舞っていた。そんな菫と勇が鈴の心の拠り所だった。

 鈴が佐伯家にやってきて半年程過ぎた頃の事だ。

 鈴はその日も勇に買ってもらった菫とお揃いの着物を着て、やっぱり勇に買ってもらった菫によく似たチッチちゃんという人形を持って、いつものように中庭の広場でお人形遊びをしていた。

「チッチちゃん、そのお着物とても素敵ね」

「タッタちゃんこそ、その下駄はどちらで買われたの? 色が素敵だわ」

 日本語を覚えるのにこの遊びは本当に役立った。何せあんなにも辿々しかった日本語をどんどん覚える事が出来たのだから。

「今度は字を教えてあげるわ! 私も習い始めたばかりなのよ」

「うん! そうしたら一緒に本読めるね!」

「そうよ。でも私ばっかり教えるのもつまらないわ︙︙そうだ! 鈴は私に英語を教えてよ! 私ね、これから日本はどんどん発展していって、鈴みたいな異国の人達が沢山日本に来るんじゃないかって思うの!」

「ほんとう!?」

「ええ、きっと! だってね、洋服の人が増えてきたってこの間の新聞に書いてあったもの! それに鈴みたいに異国に旅行に行く人もいるわ。だからきっともっと異国の人たちが身近になるんじゃないかって思うの」

「菫ちゃんすごいね! かしこい!」

 菫はこの時から既に日本の未来を見通していた。学ぶことが好きで、周りの状況もとてもよく見ていたように思う。

 鈴が褒めると菫は満更でもないような顔をして笑い、立ち上がろうとしたその時だ。

 ガタンと音が聞こえた気がして視線を上げると、菫の後ろに立てかけてあった大きな木の板がこちらに向かって倒れてくるのが見えた。

「菫ちゃん!」

 鈴は咄嗟に菫の後ろに回り込んで菫の背中を思い切り突き飛ばした。

 菫の驚いたような悲鳴が聞こえたかと思うと次の瞬間、鈴の背中を強い衝撃が襲い、思わず息をつまらせる。

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