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第396話

 するとそこには何故か角を出した千尋が立っている。


「少しだけ良いですか?」

「はい。あ、でも千隼が寝てるので……」

「では部屋を移動しましょうか」


 そう言って千尋は楽の部屋に入ってきたかと思うと、眠る千隼の頭を撫でてまた部屋を出ていく。その時の顔が本当に嬉しそうで優しくて、何だか見ているこっちが泣きそうになってしまった。


 楽の隣の部屋は誰も使っていない空き部屋だ。そこへ移動して楽は出来るだけ自分の部屋に近い所に椅子を移動させて腰掛けた。万が一千隼が起きて泣き出したら困ると思ったのだ。


 そんな楽の行動を見て千尋が口元に手を当てて笑う。


「すっかり千隼のお兄ちゃんですね」

「そ、そりゃだって……頼まれましたから……」

「それだけですか?」


 千尋の質問に楽は自分の顔が熱くなるのが分かった。


 違う。本当は千隼が可愛くて仕方ないのだ。「にいたん、にいたん」と言って後を追ってくる千隼に、楽の心は随分救われている。


 そんな楽の心を見透かしたかのように千尋が言う。


「楽、私が居ない間ありがとうございました。千隼が今日も健やかなのはあなたのおかげです。ですが、あなたはどうですか? 健やかですか?」


 突然の千尋の言葉に楽は息を呑んだ。長い間離れていても、やはり千尋には全てを見抜かれてしまう。


 楽はそんな事を考えながら俯いて千尋からもらった鏡を取り出しその縁を撫でた。


「俺、どうして良いか分からなくて……地上を去ったら、もう二度とあいつに会えないのかなって、そんな事ずっと考えてて……」


 ポツリポツリと話し出すと千尋の空気が変わった気がして顔を上げたら千尋は何とも言えない顔をして楽を見ている。


「楽、先に言っておきますが、恋愛ごとを私に相談するのは正直オススメしませんよ」

「?」


 千尋の言葉に思わず楽が首を傾げると、千尋は困ったように笑う。


「面倒だからとかそういう理由ではなく、あなたもずっと見ていたでしょう? 私の恋愛に関する酷い有り様を」

「……ああ……」


 確かに。思わず言いかけて楽は慌てて口をつぐんだ。千尋がいつも鈴の一挙一動に右往左往していた事を思い出す。


「別に構わないのですよ、認めてくれても。それにしてもそうですか。もうあなたもそんな事を考える歳なのですね」


 何だか感慨深そうにそんな事を言う千尋に楽は慌てる。


「ベ、別にそんな事ばっかり考えてる訳じゃ……」

「ええ、それも分かっていますよ。先ほども言いましたが、また地上には降りてこられるようになると思います。ですが、あなたが心配している通りどれほどの年月がかかるかは分からない。人の一生は長いようでいてとても短い。出来るだけ早く降りてこられるように進めてはいきますが、こればかりは何とも言えないのが現状です」

「……ですよね」


 分かっているのだ。決断をするには早いほうが良い。


「そんなに好きなのですか? 菫さんが」


 千尋の優しい声音に楽は素直に頷いた。そんな楽を見て千尋は優しく微笑む。それはさっき千隼に見せた顔と同じだ。


「そうですか。では気持ちを伝えるべきだと思います。どんな結果になったとしても、それはすべき賭けだと思いますよ。私のように」

「……でも俺はあいつが頑張ってるのを知ってるんです。ずっと見てきたから。だから俺の事でそれを邪魔したくない……」


 本当は菫に気持ちを全て打ち明けてしまいたいけれど、それをしたら菫は困るのではないだろうか。ただでさえ毎日勉学に勤しんでいる菫だ。地上でまだやりたい事も沢山あるに違いないのだ。


 そんな菫に気持ちを打ち明ける事で邪魔をしてしまわないだろうか?


 思わず視線を伏せた楽の頭に、千尋のひんやりとした手が乗った。その手は優しく楽の頭を撫でる。


「邪魔になどなりませんよ。もちろん今すぐついて来て欲しいと言われたら戸惑われるかもしれませんが、あなたの気持ちを伝える事が彼女の邪魔になるとは思いません。菫さんは義理堅い方です。もしかしたら私が教育費を出した事で余計に頑張ってしまっているのかもしれません」

「それはそうかも……こんな点数じゃ千尋さまに顔向け出来ないわとか言ってたし……」


 菫とはそういう人だ。鈴と同じぐらい情に熱く義理堅い。誰かから受けた恩は必ず何かしらの形で返そうとしてくるような人間なのだ。


 常々千尋に恩を返したいと考えている楽にとっては、菫のそんな所に一番惹かれていると言っても過言ではない。


 考え込んだ楽に千尋がふと思いついたように言った。


「楽、一つ菫さんに伝言をお願い出来ますか?」

「はい、もちろん」

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