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第393話

「そっか」


 千尋は確かに強いが、それとリボンの強度はまた別の話だが、こういう事を言われるとおかしくなってくる。


 それから千隼は直った鱗を下げて楽の膝の上で一緒にピアノの練習をしていたのだが、しばらくして鈴が洗濯物を畳んでいる所に楽がやってきた。


「おい鈴、千隼寝たぞ」

「本当ですか? ありがとうございます! 助かります!」

「おお。俺も一緒に寝落ちそうだった。ヤバいな、子どもの睡魔」

「分かります! 私もいっつも先に寝ちゃって、ハッとして起きたらいっつも千隼が真顔でこっち見ててビックリするんですよ」

「俺もこないだそれやったわ。めっちゃ真顔でじっとこっち見てんのな。アレなんなの?」

「さあ? こっちの動向を見張っているのでしょうか?」

「動向って……こっちはただ寝てるだけだろ?」


 笑いながら楽は鈴の向かいに座って一緒になって洗濯物を畳んでくれる。


「私はああいう時はきっと何か崇高な事を考えているのだと思っていますよ!」

「たとえば?」

「え? う、宇宙の真理……とか?」

「それ逆に怖くね?」

「ですね」


 ははは! と笑いながらいつものように時間が過ぎていく。その間もずっと朝から続くザワザワは消えなかった。


 夕方、鈴はいつものように夕食の準備をしていたのだが、何だかとても胸騒ぎがして喜兵衛に断りを入れて割烹着を脱ぐと庭に飛び出した。


 何がこんなに気になるのか自分でも分からない。


 けれど心が急げという。もうすぐだ、と。


 鈴は着物を握りしめて空を見上げていた。もうすぐ日が完全に沈むのだろう。町の方はオレンジ色に染まっている。


 そんな夕焼けに目を細めていたその時、辺りに突風が吹いた。それと同時に音のない雷が庭に落ちる。


 鈴は息を呑んで目を凝らして雷を凝視した。眩しいから直視してはいけないと千尋にはよく言われたが、今だけは目を逸らせない。


 鈴の足は知らぬ間に一歩、また一歩と雷が落ちた場所に向かっていた。


 やがて眩しい光りの中から愛しい人の声が聞こえてくる。


「鈴さん」

「!」


 その声を聞いてとうとう鈴は駆け出した。やっと迎えに来てくれたのだ! 


 鈴は無言で走った。そんな鈴の方に向かって千尋がゆっくりと歩いてくる。途中で足が縺れて転びそうになったけれど、それでも鈴は足を止めはしなかった。


「千尋さまっ!」


 千尋に手が届きそうな程近づいたその時、鈴は腕を名一杯伸ばして大地を蹴った。そんな鈴の身体を千尋が簡単に抱きとめ、そのまま強く抱きかかえられる。


「鈴さん、遅くなってすみません。ただいま戻りました」


 ふわりと香る懐かしい香りは鈴が世界で一番大好きな千尋の香り。優しく耳に響くのは世界で一番美しい楽器のような千尋の声。


 その全てを感じたくて鈴は千尋の首に腕を回して涙を浮かべる。


「っ……おかえりなさい!」


 鈴は千尋の首筋に顔を埋めて子どものように千尋にしがみついた。強く強く、もう二度と離れないように。


 そんな鈴を千尋も強く抱きしめ返してくれた。きっと考えている事は同じだ。


 千尋と会えなかった時間は鈴に忍耐と寂しさを教えてくれた。だから余計に幸福はありえない程大きくなって一気に鈴に襲いかかってくる。


 鈴はようやく訪れた幸せを噛み締めながら千尋の顔をじっと見つめた。そんな鈴を千尋もまたじっと見ている。


「何を考えているのですか?」

「多分、千尋さまと同じことです」


 愛しい。嬉しい。好き。幸せ。大好き。ずっと一緒。いつまでもずっと。


 そんな事で頭が一杯になった所でふと思った。もしかしたら寝ている時にこちらをじっと見ている千隼もこんな事を考えているのかもしれないな、と。


 思っていたよりも単純な事で頭が一杯になってしまった自分に思わず笑ってしまった。


 千尋に会ったら鈴はきっと泣きじゃくってしまうと思っていた。今までの寂しさを全てぶつけてしまうのではないかと思っていた。


 けれどそんな事は全然無かった。まるで一時も離れて居た時間などなかったかのように、不思議と千尋の腕の中はしっくりくる。


 ようやく千尋から下りた鈴はそっと千尋に手を差し出した。鈴がここへやってきた時、千尋が鈴に手を差し出してくれた時のように。


 あの時と違うのは千尋が指を絡めてきた事だ。


「何だか懐かしいですね」

「はい!」


 千尋もその事に気づいたのか鈴の手を取って笑うと、二人で並んで屋敷に向かって歩き出す。


 夕焼けが、空を真っ赤に染めたある日の事だった――。


 屋敷に入るとそこには全員が揃っていた。きっと皆、あの雷を見て気付いたのだろう。


「ただいま戻りました」


 千尋が澄んだ声で言うと、皆の背筋が途端にピンと伸びた。やはりここの当主は千尋なのだ。

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