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第389話

 何だかその言い方では色々と語弊があると慌てて訂正すると、千隼は首を傾げてポケットに入れていた千尋の鱗を取り出して拝むような仕草をするので鈴は思わず笑ってしまった。


 千隼は今何でも「なに? なに?」と聞いてくる。それに上手く答えなければならないが、なかなか難しい質問を投げかけてくるので困っている。こんな時、千尋が居たらもっと分かりやすく説明してくれるのだろうが、鈴ではそうはいかない。


 千隼は千尋の存在を写真の中でしか知らない。鈴は今も毎晩千尋のレコードをかけて千尋との思い出話を聞かせて写真を見せているが、やはり寂しいのか未だに千尋の鱗を離さない。


 前に一度千隼の不注意で鱗が失くなってしまった事があった。その時はもう朝から晩までずっと泣き続け、ついには龍に変身して辺り構わず水の矢を出そうとしたのだ。


 そんな千隼を鈴は初めて本気で怒った。どんなに気に入らない事があっても暴力に訴えては絶対にいけないのだ、と。ましてや千隼は水龍だ。少しの癇癪でいとも簡単に誰かの命を奪ってしまいかねない。


 あの時の事を千隼がどう受け取ったのかは分からないが、あれから千隼は龍に変身をしていない。それはそれで心配な鈴だ。少し強く叱りすぎてしまっただろうかと悩んでいる。


 鈴は千隼を抱いて大木の所までやってくると、祠に持ってきていたおにぎりを供えようとした。


 すると、千隼が鈴の腕から下りておにぎりを寄越せとせがんでくる。


「ちーがやる!」

「やってくれるの? ありがとう。きっとパパ大喜びするよ」

「ぱぱよろこぶ? うれしい?」

「もちろん! だってパパは千隼の事が大好きだから」

「うん!」


 そう言って千隼はいつも鈴がやるようにおにぎりをお皿の上に置いて湯呑みの中の水を変え、手を合わせている。いつの間にこんな事が出来るようになったのだろうか。毎日鈴がやる事を見て覚えたのだろうか。


 最後までちゃんと出来た千隼にもう一度お礼を言って頬にキスすると、千隼は奇声を上げて大木に駆け寄りしがみついて喜ぶ。その途端、大木は風も無いのに大きく揺れた。


 そんな大木の幹を鈴はいつものように優しく撫でると、今度は千隼を連れて神域の奥へと向かう。


 そこは相変わらず色とりどりの花が咲き乱れ、良い香りがしていた。


 鈴が花畑の真ん中にある石碑を丁寧に水拭きで拭いていると、足元では千隼も一生懸命見様見真似で雑巾で拭いてくれている。


 けれど千隼は絞る事が出来ないので石碑は下の方だけ水浸しだ。


「千隼、千隼は乾拭きしてくれると嬉しいな」


 そう言って乾いた雑巾を渡しても、千隼はすぐさまそれを受け取ってまたバケツに突っ込む。どうしても水拭きがしたいらしい。そんな千隼に苦笑いしつつ鈴はお供えの花とお菓子を台座に置いた。


「千隼、お嫁さん達にご挨拶だよ」

「うん!」


 二人で並んで石碑に手を合わせると、千尋とこうして初めて並んで手を合わせた時の事を思い出す。


 それから鈴と千隼は石碑から少し離れた所にある平たい石に腰掛けて、町を見下ろしながらお茶を飲んでクッキーを食べた。


「おちゃのむ」

「はい、どうぞ」

「Thank you」


 今ハマっていると思われる英語でお礼を言いながら自分で水筒を開けてお茶を飲む千隼に鈴はいちいち感動してしまう。千尋が聞いたら笑うかもしれないが、それほどに千隼は毎日毎日成長しているのだ。


 鈴は堪らなくなって千隼を抱きしめると心の中で呟く。


 『千尋さま、千隼はこんなにも大きくなりました。早く会いに来てやってください』と。


 千尋が居なくなって連絡も取れなくなって、もしも千隼まで居なかったら鈴はどうしていたのだろうか。


「千隼は凄いね。ママの事を生まれる前から守ってくれてるもんね」

「?」

「分かんないかな。あなたが居ると、ママはパパに会えなくて寂しい気持ちを少しだけ忘れる事が出来るんだよ。だからいっつもThank you,Chihaya」

「you're welcome.mummy」

「上手上手! 千隼は天才だね!」


 覚えたての英語で返事をしてくる千隼に思わず鈴が言うと、千隼は嬉しそうな笑顔でまた一枚クッキーを頬張る。


「おーい! 鈴ー! 千隼ー! 帰ってきたぞー!」


 そこへ神域の外から声がかけられた。楽だ。


 その声を聞いて千隼はぱぁっと顔を輝かせてクッキーを二枚ほど鷲掴みにして楽の元へ走り出すが、嬉しさのあまりか角が出てしまっている。


「にいたん! にいたん!!」

「千隼、角出てんぞ。土産貰って来たから食おうぜ」

「くおう!」


 楽に飛びついた千隼は楽の口に無理やりクッキーを突っ込んで、自分の口にもクッキーを押し込む。そんな光景を見て鈴は思わず声を出して笑ってしまった。楽は今や千隼の立派なお兄ちゃんだ。


 最近では楽としかお風呂に入らないし、楽の隣でないとご飯も食べないと駄々をこねる。何をするにも楽と一緒が良いらしい。


「姉さんに聞いたぞ、千隼。お前また後片付けの邪魔してたんだって?」

「してない」

「嘘つくな。おい鈴、気をつけろよ。そこ根っこ出てんぞ」

「本当だ! ありがとうございます」


 千隼の鼻を突きながらそんな事を言う楽に鈴は足元に気をつけながら楽の元へ向かうと、3人で屋敷に戻った。


 リビングには楽と一緒にやってきたのか、菫が皆と談笑している。


「菫ちゃん!」

「鈴、それから千隼くん。お帰り」


 鈴ははしたなく菫に駆け寄って抱きつくと、菫はもうすっかり慣れてしまったかのように鈴を抱き返してくれた。それに続いて楽から下りた千隼も菫に飛びつく。


「すーねぇね!」

「はいはい、あんた達は本当に似たもの親子ね」


 笑いながら菫は千隼の目の前に何かを取り出す。


「それなぁに?」


 鈴が問いかけると、菫は笑顔でそれを鈴に見せてくれる。


「百色眼鏡よ。雑貨屋で見つけたの」

「百色眼鏡?」

「ええ。中を覗いてみなさいよ」


 鈴は菫から百色眼鏡を受け取って菫に言われるがまま中を覗いてみた。


「カレイドスコープ!」

「イギリスではそう言うの? はい、これ千隼くんにお土産よ」

「あいあと!」


 千隼はそれを受け取って鈴がしたように中を覗き込んではしゃぐ。正しい遊び方は楽が教えてくれてやっている。


「ありがとう、菫ちゃん」

「構わないわよ。それよりもまだ迎えに来ないの? あの人」


 菫の言葉に鈴は少しだけ視線を伏せて頷く。そんな鈴を見て菫は一瞬しまった! と顔を歪めたが、すぐに意地悪に微笑む。


「その方が私としては有り難いけどね。まだ鈴と一緒に居たいもの」

「うん……そうだよね」


 千尋が迎えに来ないという事は、まだ菫と一緒に居られるということだ。そう思うと気も紛れるが、千尋に会いたいのも本当の事である。


「菫ちゃんの方はどう? 勉強は楽しい?」

「楽しいかどうかって言われたら楽しくはないわよ。でもやりがいはあるわ。今はまだ難しい問題も、あと数日、数ヶ月、数年したらきっと理解出来てるのねって思うと少しワクワクするわね」


 相変わらず前向きな菫を尊敬の眼差しで見つめながらコクリと頷いた。そしてちらりと楽に視線をやる。


「菫ちゃん、ちょっと、ちょっと!」

「なに?」

「姉妹の秘密のお話だよ!」

「なんなの」


 鈴は菫の手を引いて無理やり立ち上がらせると、そのまま自室に連れ込んで菫をじっと見つめた。そんな鈴に珍しく菫がたじろぐ。


「菫ちゃん」

「な、なによ?」

「単刀直入に聞くよ。楽さんとはどうなってるの?」

「は? な、なんで楽?」

「なんで楽、じゃないよ。菫ちゃんが楽さんの事大好きなのはもう皆知ってるよ!」


 鈴の言葉に菫は眉を釣り上げて顔を真っ赤にした。その顔は今にも噴火しそうな火山のようだ。


「と、突然何言い出すのよ!? わ、私達は別に何も無いわよ! ば、馬鹿言わないでちょうだい!」

「馬鹿じゃないよ! 菫ちゃん、千尋さまが迎えに来たら、楽さんも都に戻るんだよ? そしたら今度はいつ会えるか本当に分からないんだからね?」


 下手をしたらもう一生会えなくなるかもしれないのだ。菫には絶対に後悔してほしくない。鈴の真剣な顔を見て菫は大きなため息を落として寝台に腰掛けた。


「私にも分からないのよ。だって私はまだ地上で勉強を始めたところで、まだ何も成し遂げてないんだもの。それにあんたの旦那に出してもらった学費を無駄になんてしたくないもの」

「菫ちゃん……そっか……」

「私はあんたと違って楽と結婚したいとか、この人の子どもが欲しいとはまだ思えないの。でも……寂しいのは本当よ。ずっとここに居ればいいのにとも思ってる。ただ楽が龍だからとかは考えた事が無いわ。それはあんた達をずっと見てたからだと思う。だから一番の問題は私の心なの」

「……うん」 


 心は菫の言う通り一番難しい問題だ。鈴だって千尋について行くと決意するまでに時間がかかってしまった。既に千尋の事を好きだったにも関わらず、だ。


 鈴は菫の隣に座って、そっと菫の指に自分の指を絡めた。


「ごめんね、変な事聞いて。私ね、菫ちゃんと離れたくないんだ。だからちょっとだけワガママ言っちゃった」

「ワガママだったの?」

「うん。菫ちゃんと楽さんが上手くいけば、もしかしたら菫ちゃんも都に来てくれるかもしれないなって。酷い妹だね」

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