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第388話

「私にも分かりません。鈴さんから貰った香袋を湯船に浮かべてうたた寝をしていたら精神だけがどうやら鈴さんの元へ行ってしまったようです。これが発情期という物なのですね」


 感慨深い思いで言うと、羽鳥が珍しく身を乗り出した。


「そんな発情期聞いた事ないよ! ていうか、そんな事ある!?」

「ちょっと待って! これどういう事? ちゃんと俺達にも説明してよ!」


 訳が分かった羽鳥に流星が掴みかかると、羽鳥は肩を竦めて話し出す。


「千尋が最後に地上に降りたのは決戦の日だった。その時千隼くんはいくつ?」

「いくつって、生まれたてだったでしょ? 半年ぐらいだった?」

「そうだね。でもここには千隼くんが拾った紅葉だって書いてある。それに丸を認識したって。こんな事をしだすのは1歳半とかそこらだよ。それにこの手形。これは明らかに生まれたての子の手形じゃない。つまり、千尋は本当に地上に降りてこれを鈴さんから受け取って来たって事」


 羽鳥の説明に流星と栄はゴクリと息を呑み、息吹が大爆笑する。


「あははは! そりゃ凄いな! 流石千尋と鈴だな! お前ら知らない間にかなり強固な繋がりが出来てたんだな!」

「褒めてくださってありがとうございます、息吹」


 思いは肉体や時空、時間すらも超越する。いつか読んだ人間の哲学書にそう書いてあったが、あれはもしかしたら本当かもしれない。


 千尋は台紙をもう一度丁寧に仕舞って酒を飲んだ。きっと今千尋はいつになく微笑んでいるのだろう。


 そして鈴に会って思った。やはり千尋の心の大半は鈴が今も占めているのだという事を。


 あの日から千尋は毎日鈴の香袋を持って風呂に入ったけれど、あんな奇跡はもう二度と起こらなかった。


 ただ、その香袋のおかげで良い事もあった。職場で龍が次々に発情期に入ってしまっても、千尋だけはずっと平常心でいられたのだ。今までは周りのほとんどが発情期に入ると流石に家に篭りっきりになったけれど、鈴の香袋の匂いを嗅ぐとそれはすぐに落ち着きその間も仕事をする事が出来た。


 1人黙々と仕事をこなす千尋を見て友人達や高官達はおろか、市井の人たちまで千尋の忍耐力を褒めたけれど、千尋からしたら褒められるべきは千尋ではなく鈴だと思っている。鈴が千尋を常に平常心でいさせてくれているのだ。


 あの奇跡の日からもうすぐ一年になる。1年という月日は龍にとってはほんの一瞬だけれど、鈴にとってはどうだろうか。


「ですが鈴さん、私は何も心配はしていないのですよ。不思議とあの日からあなたを一緒に居た時よりもずっと身近に感じる事が出来るのです」


 千尋は鈴の羽織に向かって話しかけた。毎日起こった事をこの羽織に話しかけるのがすっかり日課になってしまっている千尋だ。


 このところ千尋の周りがとても騒がしい。発情期に乗じて一縷の望みをかけているのか、やたらとあちこちから恋文が届く。それはまるで時間が鈴と番になる前に戻ったかのようだった。


「千尋~芋焼いたぞ~」

「ありがとうございます」


 部屋の外からかけられた声に千尋は鈴の羽織をそっと撫でて庭に移動した。


 庭では栄が長い火箸を落葉の中に突っ込んで芋の出来具合を確かめている。ふと見ると、落ち葉だと思っていた物は全て手紙だ。


「栄、手紙を燃やすついでに芋を焼くのは止めませんか」


 呆れる千尋に栄はちらりとこちらを向いて豪快に笑う。


「何言ってんだ。どうせお前は読まないし、ただ捨てるだけじゃ勿体ねぇだろ。こうやって、焼かれてついでに芋も焼いて初めて昇華されんだよ」

「はあ、そうですか」

「それにしてもしつこいな。お前さんにはもう番が居るって事を皆、忘れてんじゃねぇのか?」

「かもしれませんね。ですがそれもあと少しの間ですよ。鈴さんが来たら私はそれこそあちこち鈴さんを連れ回すでしょうから」


 あの一件以来、都の文化は一気に進んで倒壊した家屋や建物はほとんどが大正の建物になっている。千尋が地上から持ち帰った色んな建物の設計図や大正の娯楽は今や都を見違えるほど発展させた。


「自分の功績を自慢したくて仕方ないんだよな? 天下の水龍さまは」

「ええ。鈴さんが喜んでいた物は全て都で賄えるようになったのだと胸を張りたいですからね」


 鈴と街を歩いて喜んだ物は全て取り入れたい。活動写真もレストランもフルーツパーラーも、百貨店も全て。この一年の間、千尋はそんな事に尽力していた。鈴がこちらへやてきても戸惑うことなく、すぐに馴染むことが出来るように。


 そんな千尋の不純な動悸を知らない人たちは、千尋が行っている全ての事は都をより便利な場所になるようにしてくれていると思っているようだが、それは違う。千尋は本当に鈴の事しか考えていない。


「これで料理がやってきたら完璧か?」

「そうですね。一番肝心な部分ですね」


 言いながら千尋は火箸で芋を突いて取り出すと半分に割った。黄金色の芋の香りは不意にいつかの冬を思い出す。


「何思い出したんだ?」


 きっと芋を見て知らぬ間に笑っていたのだろう。


「いえね、鈴さんが初めて焼き芋を食べた時の事を思い出したのですよ」


 イギリスでは芋と言えばじゃがいもが主流だったようで、さつまいも自体をおやつに食べるという感覚は無かったらしい。その為、焼き芋というおやつを初めて食べた時、感動のあまりに震えていたのを思い出したのだ。


「あまりに感動しすぎてしばらく毎日焼き芋を食べていたなと」


 思わず微笑んだ千尋を見て栄が笑った。


「焼き芋一つでそこまで感動してくれるなんざ、良い嫁さんだな」

「文化が日本とイギリスでは違いますからね。とは言え鈴さんは日本で8年も暮らしていたのです。その間一度も焼き芋を食べた事がなかったのかと、そちらの方に驚いてしまいました」


 鈴が屋敷にやってきた頃はそういう事が日常の中に溢れていた。


 箸を使うのが苦手だったり、焼き芋を食べた事が無かったり、焼きおにぎりを作るのさえ家の者に隠れて作らなければならなかったり、そういう話をしたり察したりしているうちに、次第に千尋は鈴に惹かれていったのだ。それは鈴に同情したからではない。そんな境遇でも鈴は誰かを恨むでもなく、自分を責めるでもなくただひたすらに前を向いていたからだ。


 神森家にやってきた時、鈴は「ここを追い出されたら1人で生きていくつもりだった」と言っていた。それは裏を返せば1人で生きていく自信があったという事だ。


 たとえ見た目で迫害されても、絶対に生を諦めないという強い思いが千尋の心を揺さぶったに違いない。


「今思えば雅にしても鈴さんにしても、生きるという事にひたすら向き合い誠実で執着のある方が私は好きなのでしょうね」

「俺達の人生は長いからな。そりゃそういう生物に憧れを持つ気持ちも分かるぞ。ただな、お前は生への執着はあまり無いかもしれんが、嫁さんへの執着が強すぎる! 毎度毎度花屋で同じ花ばっか買ってくるもんだから、温室がとうとう鈴蘭で埋め尽くされちまったじゃねぇか!」

「それは仕方ないでしょう? 前も言いましたが他の誰かが鈴蘭を愛でるのかと思うと、虫唾が走るのですよ」

「前より表現が酷くなってんな。まぁいいさ。それで、そろそろ迎えに行ってやってもいいんじゃねぇのか?」

「流星への投票があと少しで半分を取ります。それが終わり流星が王になれば、すぐにでも迎えに行きますよ」


 栄の言葉に千尋は深く頷いた。全ての事業を流星名義で行ってきた甲斐があったというものだ。


 流星が王になり千尋と鈴の婚姻を正式に認めてくれて初めて、鈴は正式な千尋の妻となり誰にも手出しが出来なくなる。こんな手紙などが二度と千尋の元へ届くことも無くなるのだ。


 千尋はそんな事を考えながら焼け焦げて真っ黒になった手紙を火鉢で突いて完全に灰にして崩した。そんな様子を栄が苦笑いしながら見ていた。



♥ 

「千隼! それは食べ物じゃないよ! 待って待って! そこの戸棚は開けないの! 危ない物が沢山入ってるから!」

「こら! お前は本当に少しもじっとしてないね! 楽はまだ戻らないのかい!?」


 全ての戸棚を開けることに喜びを覚えている千隼を捕まえて雅が言うと、千隼はハッとして戸棚を開けるのを止めて向きを変え、一目散にドアに向かって走っていく。


「にいたんまだ? いく! ちーもにいたんとこいく!」

「にいたんは菫と大事な用事があるんだよ! あんたはここで大人しくしてな!」

「やだ! いく! ちーもいくーーーーー!!」


 鈴と雅は千隼の衣装箪笥を整理しながらさっきからずっとこの調子で千隼に振り回されていた。二歳になった途端千隼は鈴達も慄く程の成長を遂げている。伝え歩きが終わり自分で自由に歩けるようになったのを皮切りに喃語も卒業して今では普通に意思の疎通も図れるようになっていた。そのおかげで屋敷はいつも誰かしらの絶叫と笑い声が絶えない。


「鈴、ここはあたしに任せてちょっと千隼連れて息抜きしてきな!」

「は、はい! 千隼、今日のお参り行こ」

「うん!」


 鈴が声をかけると千隼はクルリと振り返って駆け寄ってきて抱っこをせがむので、鈴は大分重くなった千隼を抱き上げてその頬にキスすると、千隼もキスを返してくれた。


「ぱぱのおはか、ちーおいのりするよ」

「パパのお墓じゃないよ、千隼。パパの大切なお嫁さん達のお墓だよ」

「え、なに?」

「パパの、お嫁さん達の、お墓だよ」

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