こんなにも都合の良い夢を見て、夢の中でも千尋に慰めてもらって情けないが、それでも鈴の心は大分回復したような気がした。
しばらくして泣き止んだ鈴はふと思い立って千尋から離れると、戸棚の中から一枚の台紙を取り出して千尋に見せる。
「千尋さま、これ千隼が拾った落ち葉で作った台紙です。良かったらお持ち帰りください」
ようやく浮かべることが出来た笑顔を見て、安心したように千尋は台紙をまじまじと見つめて柔らかく微笑んだ。
『あえて穴だらけの物を選んだのでしょうか』
千隼が選んだ落ち葉は虫食いだらけでまだちゃんと紅葉もしていない。それがおかしいのか千尋は小さく肩を揺らしている。
透き通るような千尋の声に鈴が頷くと、ふと千尋が顔を上げて窓の外に視線をやった。そしてため息をついたかと思うと名残惜しそうに鈴に口づけ、龍に戻って鈴の周りを一回りする。
そんな千尋の行動に鈴も気づいた。もうそろそろ夢から覚める時間なのだと。
千尋が室内を回ると風が巻き起こり、鈴の髪を揺らした。
鈴は千尋が移動しやすいように窓を開けると笑顔を浮かべて言う。
「千尋さま、会いに来てくださってありがとうございます。次に会う時はきっと、触れる事が出来ますよね?」
鈴の問いかけに龍に戻った千尋ははっきりと頷いて答えてくれた。
『もちろん。もう少しだけ待っていてください』
それだけ言って千尋は庭を数回周り小さな竜巻を作ると、鈴の手から台紙を持って真っ直ぐに竜巻と一緒に空に向かって昇っていってしまう。
鈴は竜巻が見えなくなるまで窓の外を見つめていたけれど、外から不意に冷たい風が吹き込んできて慌てて窓を閉めたその時だ。
「あんたはまた! こんな所でそんな格好でうたた寝して! 風邪でも引いたらどうするんだい!?」
突然の声に鈴がハッと顔を上げると、後ろで雅が怖い顔をしてこちらを見下ろしている。
「ゆ、夢?」
鈴が部屋の中をいくら見渡してもそこにはもう千尋は居ないし風も吹いていない。
「なんだ? 面白い夢でも見たのかい?」
「はい……千尋さまが風になってやってきてくれる夢だったんです」
「そりゃ良かったじゃないか。しかしあんた、この部屋は一体どうしたんだい?
いつも綺麗にしてるのに、窓を開けて換気でもしてたのかい?」
雅に言われて室内を見渡すと、天井から吊るしているハーブの一部が床に落ちている。それはまるで部屋の中で風が吹き荒れた後のようだ。
「いえ、窓を開けた記憶なんて……」
そこまで言って鈴はハッとして戸棚に駆け寄って千隼の台紙を探したけれど、どこにも見当たらない。
「どうかしたのかい?」
雅の声に鈴が振り向くと、鈴は一体どんな顔をしていたのか雅が怪訝な顔をして近寄ってくる。
「雅さん……」
「うん?」
「もしかしたら千尋さまが居たかもしれません……ついさっきまで」
「は? それは夢だったんだろ?」
「そう……だと思ってたんですけど……」
そこまで言って鈴はもう一度戸棚の中をひっくり返したけれど、やはり千隼の台紙だけが忽然と消えている。
それに気づいた鈴は今度は笑い出した。そんな鈴を見て雅はとうとう鈴のおでこに手を当ててくる。
「あんた、大丈夫かい? 今日は一緒に風呂に入ってやろうか?」
心配そうな顔をして鈴の顔を覗き込んでくる雅に鈴は元気に頷いた。いつの間にかさっきまで感じていた寂しさは消えてなくなっている。
「はい! ぜひ!」
鈴は自分の着替えと千隼の着替えを持つと、雅の手を引いてリビングに移動した。そこでは楽が膝の上に千隼を乗せ、喜兵衛と弥七が本を読み聞かせるのを一緒になって聞いている。
「皆さんありがとうございます。千隼をお風呂に入れてきますね!」
元気良く鈴が言うと、3人はこちらを向いて鈴の顔を見てホッとした顔をした。どうやら今日あった事を皆は雅から聞いたようだ。
「着替え置いていけよ。今日は俺が入れてやるから。お前はゆっくり風呂であったまってこいよ」
そう言って楽は鈴に向かって手を差し出す。そんな楽の言葉に弥七が声を上げた。
「楽1人じゃ危ないだろ。俺が一緒に入ってやるよ」
「弥七はだめだよ。力加減が馬鹿になってるんだから。自分が入る」
「大丈夫だってば! 千隼も大きくなったし二人で入れるよ!」
3人の言葉に楽の膝の上の千隼は楽しそうに足をバタつかせている。そして結局――。
「都に行ったら風呂だけはデカくしてもらわないといけないね」
呆れたように言う雅に鈴は頷いた。
「本当ですね……皆、ちゃんと湯船につかれるんでしょうか?」
「3人は無理だよ、流石に。あいつらは本当に馬鹿だよ」
「雅さん! 誰も風邪を引かないといいんですけど……」
笑いながら言う鈴を見て雅が微笑んで鈴の頭を撫でてくる。
「夢だろうが現実だろうが、あんたが千尋に会えて良かったよ。あたし達とあんたの時間の感覚は全然違う。あたし達にとっちゃたったの一年でも、あんたからしたらもう一年なんだもんな」
「雅さん……」
「そんな顔しなさんな。夢の中の千尋はどうだった? 変わってなかったかい?」
「はい! 相変わらず美しくて優しかったです!」
「そうかい。もしもその夢が現実だったのなら、あんたと同じぐらい千尋も喜んでるだろうさ。まぁ、あんたが台紙をただ失くした訳じゃないのなら、きっと千尋は嬉々として持ち帰った台紙を部屋に飾るんじゃないか?」
意地悪に笑った雅に鈴も笑いながら頬を膨らませた。夢でも現実でも良い。だって、いつか必ず答え合わせをする事が出来るのだから。
♠
「――ろ! 千尋!」
「っ」
千尋はハッとして目を開けた。脱衣所の方から栄の怒鳴り声が聞こえてくる。もう少しで風呂に飛び込んで来そうな勢いの栄に千尋はすぐさま返事を返した。
「もう出ますよ」
その声を聞いてホッとしたのか栄の気配が遠ざかっていく。
とても良い夢だった。あれは鈴の記憶だろうか? それとも自分の心が見せたただの都合の良い夢だったのだろうか?
それは分からないけれど、ほんの一時だけまるで時間が巻き戻ったかのようだった。
千尋はため息を落として風呂から出ると、脱衣所に一枚の紙が落ちている事に気づいた。
入ってきた時には何も落ちていなかったのできっと栄が落として行ったのだろうと思い拾い上げ、それが何なのかを確認した千尋は思わずその場で硬直してしまう。
「まさか夢じゃ……なかった?」
拾い上げた長方形の紙を裏返すと、そこには鈴が見せてくれた穴だらけの紅葉が貼り付けられている。
千尋は震える手でもう一度台紙をじっと見つめた。台紙の下の方には鈴の字で拾った日の日付と文、そして千隼の小さな手形が乗っている。そこにはこう書かれていた。
『千隼、庭で穴だらけの紅葉を拾い、穴と千尋さまの鱗を交互に指差して何かを訴えてきた。もしかしたら丸という形を認識したのかもしれない。何だか嬉しいので台紙にして残す。いつか千尋さまにも見せたい』
それを読んで千尋は思わず片手で顔を覆った。泣きそうだ。ただの台紙なのに、ここには鈴と千隼の千尋への揺るぎない愛情が詰まっている。
千尋は台紙を大切に仕舞うと、着替えて風呂を後にした。
居間へ行くとそこは既に酒盛り状態になっている。
「千尋~溺れてんじゃないかって皆で心配してたんだぞ~!」
一升瓶を抱えてご機嫌な息吹の言葉に流星と羽鳥が笑いながら頷いた。
「風呂で溺れる水龍なんて聞いた事もありませんよ」
もしそんな事になったら永遠に語り継がれてしまう。歴史上最もドジな水龍として。
苦笑いを浮かべる千尋を見て栄が不思議そうに首を傾げた。
「なんだ? 随分とご機嫌じゃないか。それにこりゃ何の匂いだ? 随分良い匂いがするが、風呂にこんな匂いのするもんあったか?」
「鈴さんの匂いです。正しくは花とハーブの香りですが。発情期の龍の匂いよりは良いでしょう?」
「ああ、そりゃもう。一気に浄化されたな!」
龍は自然の物が大好きだ。鈴はそれをとても良く分かっている。満面の笑みを浮かべて酒を飲む栄の隣に座った千尋に今度は羽鳥が問いかけてきた。
「それにしても長いお風呂だったね。瞑想でもしてたの?」
「いいえ。鈴さんに会いに行ってました」
そう言って着物の胸元を触った千尋に皆が一斉に首を傾げる。
「えっと……寝てたって事?」
「本当に鈴さんに会いに行ってたんですよ」
「……千尋くんがとうとう壊れたね」
「働かせすぎたかな? それともやっぱり我慢しすぎておかしくなったとか?」
千尋の言葉に流星と羽鳥はそんな事を言うが、それ以外に言いようがない。何故なら証拠がちゃんとここにあるのだから。
「信じられなくても本当の事です。きっと今頃鈴さんも私と同じように驚いているでしょうから」
視線を伏せて微笑んだ千尋を見てまた皆は黙り込む。
「発情期に当てられたのかな……」
「流石の千尋くんでもあの匂いには抗えなかったのかも」
「はぁ……これを見てください」
誰も信じてくれないのでとうとう千尋は先程拾った台紙を皆の前に取り出した。それを見て皆は揃って首を傾げる。
「えっと、これは穴だらけの紅葉?」
「ええ。この文章を読んでください」
そう言って千尋が指さした先を見て流星が声を出して読み上げた。
最初は皆それを読んでも首を傾げていたが、やがて羽鳥が何かに気づいたかのようにハッとして顔を上げる。
「君のお風呂は一体どこへ繋がってるの!?」