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第386話

 鈴はそう言ってその場で涙を零し始めた。静かにハラハラと涙が溢れ、絨毯に小さな小さなシミをいくつも作る。そのシミはあっという間に絨毯に染み込んで行くが、離れていた間この絨毯は一体どれほど鈴の涙を吸い込んだのだろうか。


 本当に抱きしめる事は出来ないけれど、千尋は鈴が泣き止むまでその場でずっと抱きしめていた。


 この不思議な夢は千尋のあまりにも鈴に会いたいと願う心が起こした奇跡なのだろう。だからこそ覚めてしまわないようにと願わずにはいられない。


 しばらくしてようやく泣き止んだ鈴は、おもむろに踵を返して戸棚の中から何かを取り出した。


『千尋さま、これ千隼が拾った落ち葉で作った台紙です。良かったらお持ち帰りください』


 そう言って鈴は台紙を掲げて千尋に見せてくる。それはまだ真っ赤に染まる前の、あちこち虫に食われた紅葉が貼り付けられた台紙だ。紅葉の下には千隼の小さな手形が押してある。


「あえて穴だらけの物を選んだのでしょうか」


 それがおかしくて千尋が微笑んだその時、どこか遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。


 千尋はため息をついて鈴に口づけ、龍に戻ると鈴の周りを一回りする。


 すると室内だと言うのに風が巻き起こり、鈴の柔らかな髪を大きく揺らす。その風に鈴がうっとりと目を細め窓を開けてくれた。


『千尋さま、会いに来てくださってありがとうございます。次に会う時はきっと、触れる事が出来ますよね?』

「もちろん。もう少しだけ待っていてください」


 千尋は鈴がくれた台紙を巻き上げ窓から外へ飛び出して小さな竜巻を作った。その様子を鈴が窓枠に手をかけてワクワクした様子で見守っている。


 千尋は竜巻の真ん中に台紙を浮かせて落とさないよう慎重に空を駆け上った。



♥ 

 屋敷に戻った鈴は夕食を食べ終え、手早く後片付けをして楽に千隼を預けて自室に引っ込んだ。部屋に戻るのがいつもよりもずっと早いが、事情を分かっている雅はそんな鈴をすんなり送り出してくれた。


 鈴は部屋に戻るなりすぐさま千尋宛ての日記を取り出して鉛筆を走らせる。


 鉛筆の滑りは途中まではとても良かった。今日の事を思い出すと知らず知らず笑みまで溢れてしまう。


 鈴は今日の出来事を箇条書きにして書き出していく。


『雅と菫とマチと千隼と行った活動写真が楽しかった。途中で千隼が泣き出して焦ってしまった。その後に行ったレストランで鈴はコロッケの定食を注文したが、肝心のコロッケはほとんど千隼に食べられてしまい、鈴はお味噌汁とご飯しか食べる事が出来なかった。そんな鈴を不憫に思ったのか、皆がそれぞれ自分のおかずを分けてくれて、気づけば頼んだ物よりもずっと豪華なメニューになった。それから皆で買い物をしてマチと雅が百貨店で千隼の新しい洋服を買ってくれた。

フルーツパーラーでもレストランと同じことが起きた。ただ、フルーツパーラーでは鈴だけではなくて皆が千隼にフルーツを取られてしまった』


 そこまで書いて鈴は鉛筆を置いた。脳裏を過るのはお菓子屋さんのお婆さんだ。雅が言うにはお婆さんはもう長くは無いと言う。年齢的にもそうだろう。それは生き物としては正しく、必然だ。それは分かっているのに、どうしてもすんなりと受け入れる事が出来ない。


 鈴はお婆さんの事を書いては消して書いては消してを繰り返した。何度も何度も書き直しているうちに、とうとうノートが破れてしまう。


「千尋さま……」


 鈴は机の上に飾ってあった写真立てを手に取り自分の方に引き寄せる。こんな時、千尋ならきっと何も言わずに抱きしめてくれるのだろう。その答えは千尋にも分からないからだ。そんな時、千尋は何も言わない。その代わりにいつも「自分もそうだよ」と言わんばかりに抱きしめてくれる。


 鈴は席を立って千尋の羽織を抱きしめてみるが、いつの間にか羽織から千尋の香りはすっかり消えてしまっていた。


 どんどん消えていく千尋の痕跡に鈴はいつも苦しくなる。レコードから聞こえる千尋の声だって本当の千尋の声じゃない。羽織からはもう何の匂いもしない。写真の中の千尋はいつも微笑んでくれるけれど、鈴にだけ見せてくれるあの笑顔ではない。


「……千尋さま……どこに居るの?」


 思わず鈴はその場に座り込んで両手で顔を覆った。自分はこんなにも弱かっただろうか。こんなにも情けなかっただろうか。そんな事を考えながらどうにか今日も寂しさを押し込める。


 鈴は溢れそうになる涙を堪えてまた机に向かった。何でも良いから文字を書いているとその時だけは千尋の事を考えなくて済む。


 気がつけば鈴は机に俯せていつの間にか眠ってしまっていた。


 夢の中で鈴はやっぱり日記を書いていた。今日の事を書こうかどうしようか、涙が時折ポツリとノートに落ちる。


 その時だ。ふと部屋の中に柔らかな風が吹いた。驚いて窓を見たけれど、窓はしっかりと閉まっている。それにこの風の感じは覚えがあった。あの風龍だ。


 けれど風龍にしては温かくて心地よい。


 鈴は思わず顔を上げて尋ねた。


「千尋さま?」


 鈴の言葉に風が揺れる。その風はどこか懐かしくてひんやりとしていた。それに気づいた鈴は慌てて立ち上がって辺りを見渡す。


「いるのですか?」


 声をかけても返事は返って来ない。まさか千尋の身に何かあったのだろうか?

 龍は死ぬと大気に戻ると千尋が言っていた。その事を思い出して鈴は焦ったけれど、鈴にまとわりつく風には悲壮感が無い。それにもしも千尋に何かあったら、きっと何が何でも誰かが連絡をくれるはずだ。というかそもそも千尋ですら無いかもしれない。


 そこまで考えて鈴はハッとした。そうだった。これは夢の中だったと。


 それに気づいた途端、目の前にぼんやりと千尋の姿が浮かび上がった。


『ええ、いますよ。どうしたのですか? そんなにも泣きそうな顔をして』


 夢の中の千尋はあまりにも鮮明だった。まるでそこに本当に千尋がいるかのようだ。


「千尋さま……今日、とても嬉しくて悲しい出会いがありました。本当はその事も日記に書こうかと思ったのですが、書いては消してを繰り返しています」

『あの老婆の事ですね』


 千尋の言葉に鈴は続きを話しだした。夢の中の千尋も鈴の記憶と同じで穏やかな笑みを浮かべている。そんな顔を見ると心の中に仕舞っておこうと思っていた思いが溢れ出してしまった。


「覚えていないのに不思議です。あんなにも懐かしい気がしたのに、もっと話したいことは沢山あったのに、もしかしたらもうすぐお別れしなければならないかもしれないのです……」

『……そうですね』

「でも雅さんが、お婆さんには加護がついたって言ってました。お婆さんの旦那さんは若くで亡くなってしまったそうで、女手ひとつで息子さんを育てられたと菫ちゃんが教えてくれたんです。千尋さま、もし居るのなら勝手なお願いだとは思うのですが、お婆さんに加護をあげてください。旦那さんに会えるような、そんな加護を……」


 今にも泣き出しそうに言う鈴に千尋は近づいてきてそっと抱きしめてくれた。千尋の腕は鈴をすり抜けてしまうけれど、その代わり風が鈴を包みこんでくれる。その温度は少しひんやりとした千尋の温度そのものだ。


「お婆さんは世界で一番愛していた人と永遠にお別れする事になってしまったのです……」


 そこで言葉を切って鈴は俯いて涙を一粒零して首を振った。ここまで言ってようやく分かった。どうして鈴がお婆さんの事を受け入れる事が出来なかったのかを。


 鈴はいつの間にか自分の状況とお婆さんを重ねて悲観し、悲しんだのだ。それに気づいた鈴はもう一度千尋にお願いした。


「すみません……私は何だかいつの間にか自分とお婆さんを重ねてしまっていたみたいです。千尋さまは必ず迎えに来てくれるのに……もう会えないわけじゃないのに……でもだからこそお婆さんに加護をあげてください、千尋さま……お願いします」


 そう言って鈴は千尋に向かって深々と頭を下げた。とても勝手な願いだ。こんなのはただの自己満足だ。


 それなのに止まらない。お婆さんと違って鈴はまた千尋に会える事も分かっている。それでも今のこの寂しさを拭い去る事が出来なかった。だからせめてお婆さんが亡くなったその時には先に亡くなってしまった旦那さんに会えるようにと願った。自分の気持ちや想いをそこに乗せて。


 これが夢で良かった。こんな勝手なお願いをしたら千尋はきっと困ってしまう。


 そんな勝手な鈴に千尋は一歩近寄ってきてしゃがむと、頬にキスして言う。


『大丈夫ですよ、鈴さん。もうあの方には加護を与えてきました。これが夢では無い事を願っています』


 それを聞いて鈴は安心したように微笑んだ。夢は自分の心を映すという。きっと鈴は知らぬ間にこうやって千尋に言ってもらいたかったのだろう。


 夢の中の千尋であれば、本当の願いを口に出しても良いかもしれない。誰にも言えない、千尋への思いも涙も見せてしまっても良いかも知れない。


『……千尋さま……会いたいです……すごく』


 鈴はとうとう呟いて涙を零した。とめどなく溢れるずっと我慢していた涙は、千尋がここを去ってから誰にも見せた事は無かった。


 鈴はもうここに嫁いできた時のような少女ではない。今は神森家の当主で千隼の母親でここを千尋の代わりに守り抜かなければならないのだ。


 涙は絨毯が全て吸い込んでくれた。涙が落ちた瞬間に出来上がったシミはあっという間に消えていく。


 そんな様子を見つめていた鈴を、千尋はやっぱり何も言わずに抱きしめてくれていた。優しい風と共に。


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