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第385話

「実際もうじきだと思うよ。皆の反応を見ても流星を推す声が強い。あちこちに根回しした甲斐があったよ」

「当然です。そうでなければ困りますよ」


 色んな所に流星を引っ張り出し、ありとあらゆる功績を流星の名を使って工作した甲斐があったというものだ。


 民意というものは圧倒的に事なかれ主義が多いが、目に見えて自分に恩恵があった物に対しては絶大な信頼を置く傾向がある。


 千尋の言葉に羽鳥は深く頷いた。


 部屋に入るとそこにはささやかながら沢山の料理と酒が並んでいる。


「よくもまぁこんなにも」


 千尋が所定の席に座ろうとすると、栄がふと千尋を見て眉根を寄せた。


「千尋、お前先に着替えてこい。何なら風呂にも入ってこい」

「そんなに染み付いてますか?」


 栄が言っているのは、あの娘の発情期の匂いの事だろう。千尋が尋ねると栄だけではなく流星も羽鳥も息吹でさえも真顔で頷いた。


「なるほど。では少し失礼します」


 それだけ言って千尋は部屋を出て寝室に戻ると、ふと思いついて鈴から受け取った荷物を漁りだした。その中にはハーブが詰まった香袋もあったはずだ。


「ああ、ありました」


 香袋を鼻の近くに持ってくると鈴からいつもしていた甘くて爽やかな香りがする。


 鈴自身の香りというよりは、鈴がいつも飾ったり干したりしていた花やハーブの香りなのだが、千尋はこの香りが大好きだ。


 千尋はその香袋と着替えを持って風呂に向かうと、湯船に香袋を浮かべた。すると途端に風呂場は鈴の香りに包まれる。


「鈴さん」


 目を閉じて思わず呟くと、どこからか鈴の「千尋さま」という声が聞こえてきそうだ。


 会いたい。今どこで何をしているのだろう。片時も忘れずに千尋の事を思い出してくれているだろうか。そんな事を考えながら湯船に浸かっていると、気がつけばうたた寝をしてしまっていた。


 夢の中で千尋は龍の姿で鈴を少し高い所から見下ろしていた。これが夢だと分かっていても鈴の姿を見る事が出来ただけで千尋の胸は逸る。


 鈴はどうやら菫達と出かけているようで、楽しそうに通りを歩いていた。その通りは千尋が見たことが無い場所だったが、何故か鈴は懐かしそうに目を細めていた。


 しばらくすると老婆が現れ、鈴を見て涙を浮かべて何やら大声で叫んでいる。そんな老婆に鈴が一枚の写真を見せた。一体どんな写真を見せたのか気になって千尋が鈴に近づいて後ろから覗き込むと、それは千尋と鈴と千隼の写真だ。


 その写真を見せた時の鈴の顔は嬉しそうな恥ずかしそうな何とも形容し難い顔で思わず千尋は鈴から視線を反らしてしまう。


 その時、視線の先に千隼が目に入った。千隼は雅に抱かれていたが、ふとこちらを向いて両手を伸ばしてきた。千尋は千隼の側に行き鼻先で千隼のおでこに触れると、千隼は雅に下ろせとせがんで壁を伝ってこちらに歩いてこようとする。


「もう、歩けるのですね」


 思わず漏れた声に千隼は嬉しそうに手をバタつかせ、その場に尻もちをつく。どうやら手を放すとまだ自力で立てないようだ。そんな千隼に千尋は目を細めていると、そこへ鈴がやってきて千隼を抱き上げ老婆の所へ戻っていく。


 そんな鈴の後について千尋も老婆の前に向かうと、老婆は千隼を抱き上げふと視線をこちらに向けた。


 老婆は驚いたように視線を千隼に戻してまじまじと千隼を見つめ言う。


『こりゃたまげた……さっきの女みたいなのは本当に亭主かね……こりゃまた愛らしい子だ……』

『はい!』


 この時の鈴の笑顔が本当に幸せそうで胸が詰まりそうだ。鈴はまだちゃんと千尋だけを思ってくれている。それが分かっただけで千尋は満足だった。


 それから老婆は雅と話し、鈴達と分かれてゆっくりと歩き出す。何だか心配でそんな老婆の後を追うと、老婆は唐突に千尋に話しかけてきた。


『この間の龍はあんたかね』

「ええ。妻がお世話なりました」


 千尋が答えると老婆は微笑んで首を振る。


『あたしゃ何も出来なかったんだ。今よりも身体だって頭だって動いたのに、佐伯が怖くてあの子らに手を差し伸べてやれなかった。かろうじて出来た事と言えば菓子をやるぐらいだった』

「それでも、です。あなたやこの街の方たちが証言してくれなければ、いくら私が政府を動かしても佐伯をあそこまで徹底的に潰すことは出来ませんでした。時間はかかったかもしれませんが、あなた達は本当の意味で妻を助けてくれたのですよ」


 囁くように千尋が言うと、老婆は笑みを深めてまた歩き出す。


『あの黒猫が龍の加護を貰えたって言うんだよ。あたしゃそんなもん無くてもあっちの世界で楽しくやるつもりだったけど、やっぱりどこか怖かったのかね。少しだけ恐怖が和らいだよ』


 まるで独り言のような老婆の言葉に千尋は頷き、老婆の頭にそっと触れた。


「私の息子の加護では心もとないので、あなたにこれを授けましょう。誰でも新しい世界へ飛び込む時は恐怖心と戦わなければなりません。ですがこの加護があればあなたの行く道を私の加護が照らすでしょう。あなたが新しい道を行くとき、一筋の光りを辿ってみてください」


 千尋が言うと、老婆は笑ったままポロリと涙を零して子どものように頷く。


『あの人に会えるかねぇ』


 そう言って老婆が着ていた着物の胸元に触れた。よく見るとそこだけ違う布が充ててある。それを見て千尋は全てを察した。


「会えますよ。その加護はあなたとその方の縁を繋ぎ直してくれます。私が鈴さんと出会えたように」

『そうか……そうだね……龍神様の加護があるんだ……会えるに違いないね。悪かったね。私達は随分長いことあんたの事を誤解していたよ』

「構いません。この国が無事であれば私の仕事は成功したという事です。それに私はもう十分すぎる程の報酬を頂きました。妻と子どもという、身に余るような報酬を」


 千尋の言葉に老婆が微笑んだその時、後ろから男の声が聞こえてきたので千尋は老婆の周りをぐるりと一廻りして老婆に声をかけた。


「さようなら。新しい世界を楽しんでください」


 その声が老婆に届いたかどうかは分からないが、老婆はやってきた男に背負われて夕暮れの通りを去っていった。


 千尋はそのまま既に懐かしい神森の屋敷に戻ると、人型になって鈴を探す。


 鈴は自室で何かを書いていて、その手元には千尋の写真が置いてあった。時折その写真を見ては目を細めてまた何かを書き出す。手元を覗くとそれは千尋に当てた日記だった。


「もしかしてずっと書いてくださっているのですか?」 


 思わず問いかけると、ふと鈴が視線を上げてキョロキョロと辺りを見渡して立ち上がった。


『千尋さま?』

「!」


 突然の鈴の呼びかけに千尋は驚いた。あの老婆は既に死期が近かったので千尋の姿が見えていたとしても不思議には思わなかったが、鈴は違う。一体何故? そこまで考えて千尋は我に返る。そうだ、これは夢だったのだと。


 そんな事もすっかり忘れて驚いた自分自身に苦笑いしながら千尋は鈴の前に立つと、鈴は見えないはずなのに千尋を見上げてくる。その角度は寸分の狂いもなくて思わず嬉しくなってしまった。何て都合の良い夢なのだろうか。


『そこに……いるのですか?』

「ええ、いますよ。どうしたのですか? そんなにも泣きそうな顔をして」

『千尋さま……今日、とても嬉しくて悲しい出会いがありました。本当はその事も日記に書こうかと思ったのですが、書いては消してを繰り返しています』

「あの老婆の事ですね」 

『覚えていないのに不思議です。あんなにも懐かしい気がしたのに、もっと話したいことは沢山あったのに、もしかしたらもうすぐお別れしなければならないかもしれないのです……』

「……そうですね」


 鈴の言葉に千尋の胸が痛む。鈴はあと何度こうして出会いと別れに胸を踊らせ悲しむのだろう。


『でも雅さんが、お婆さんには加護がついたって言ってました。お婆さんの旦那さんは若くで亡くなってしまったそうで、女手ひとつで息子さんを育てられたと菫ちゃんが教えてくれたんです。千尋さま、もし居るのなら勝手なお願いだとは思うのですが、お婆さんに加護をあげてください。旦那さんに会えるような、そんな加護を……』


 今にも泣き出しそうな鈴に近づいて千尋はそっと抱きしめた。腕がすり抜けても鈴の温かさは何も変わっていない。


『お婆さんは世界で一番愛していた人と永遠にお別れする事になってしまったのです……』


 そこで言葉を切った鈴は俯いて涙を一粒零して首を振る。


『すみません……私は何だかいつの間にか自分とお婆さんを重ねてしまっていたみたいです。千尋さまは必ず迎えに来てくれるのに……もう会えないわけじゃないのに……でもだからこそお婆さんに加護をあげてください、千尋さま……お願いします』


 そう言って鈴は千尋に向かって深々と頭を下げてきた。こんな時でも鈴は自分の事を願わない。いつまでも出会った頃のままの鈴に千尋は目を細めてその頬に口づける。


「大丈夫ですよ、鈴さん。もうあの方には加護を与えてきました。これが夢では無い事を願っています」


 千尋の声が鈴に届いている訳ではないはずなのに、これは夢でしか無いというのに、それでも千尋は伝えたかった。


 と、その時。ふと鈴が呟く。


『……千尋さま……会いたいです……すごく』

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