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第384話

 千尋は仕事部屋で一枚の写真を見ながら深い溜め息を落とした。その声に部屋で作業していた若い娘の龍がハッとした顔をする。


「法議長、大丈夫ですか?」


 若い龍は持っていた書類を置いてこちらに近寄ってきた。そんな様子に千尋は顔を上げて笑顔を浮かべる。


「ええ、大丈夫ですよ。続きをお願いします」

「……はい」


 娘は千尋の笑みを見て頭を下げるとまた書類仕事に戻った。なかなか優秀な娘だが、千尋の独り言にいちいち心配して仕事の手を止めるのは止めて欲しい。


 そう思いつつも千尋は流星と羽鳥に言われた注意を思い出していた。


『千尋くん、わがまま言わないで。お願いだから若手を追い詰めるのは止めて』

『そうだよ、千尋。君がそんな事じゃいつまで経っても鈴さんに会えないんだからね? 思っていても口には出さないで』


 この半年の間に何度も千尋の仕事場には若い龍がやってきたけれど、千尋の下で働くという事がどういう事なのかを理解していなかったのか何なのか、皆すぐさま逃げ帰り二度と来なくなってしまったのだ。


 見兼ねた二人は千尋に怖い顔をして詰め寄って来て先程のお小言を言われた。


 けれど千尋から言わせてもらえば、事あるごとに千尋の機嫌を取りに来るような者など側にはいらないのだ。


「議長、終わりました」

「ええ、ありがとうございます」


 それだけ言って千尋は書類を受け取り席を立とうとしたその時、突然その娘の身体がぐらりと傾いだ。そんな娘に千尋はすぐさま腕を差し出し、その顔を覗き込む。


「大丈夫ですか?」

「は、はい。申し訳ありません」

「いえ。少し休んでから帰りなさい。それではまた明日」


 千尋は娘を部屋のソファに座らせて部屋を出た。そしてそのまま真っ直ぐに羽鳥の元へ向かう。羽鳥の仕事部屋は千尋の仕事部屋の斜向かいにある。


「羽鳥は居ますか?」


 突然現れた千尋を見て羽鳥の所の若い龍がハッとして振り向き、千尋を見てあんぐりと口を開ける。


「なんです?」

「あ、いえ……羽鳥さまですね。少々お待ち下さい」


 それだけ言って若い龍は部屋の奥へ入っていき、しばらくすると気だるげな羽鳥が姿を現した。


「あなたも体調不良ですか? 大丈夫ですか?」

「あなたも?」

「ええ。うちの見習いも体調が悪そうでしたから」


 淡々と言いながら書類を渡すと、羽鳥は一瞬眉根を寄せて大きなため息を落とす。


「君は相変わらず凄いね」

「何がです?」


 羽鳥が一体何を言っているのか分からなくて千尋が首を傾げると、羽鳥が一歩近づいて来て千尋の着物を突然嗅ぎ出した。


「何ですか? 気味が悪い」

「やっぱり……これは君の所の子か……」

「だから何が?」

「発情期だよ。君の所の子、多分発情期に入ってる。明日からしばらく休ませた方が良いよ」


 それを聞いて千尋はポンと手を打った。なるほど。だから仕事場でもやたらと鈴を思い出してしまうようになったのか。


「もしかして気づいて無かったの?」

「ええ。やたらと鈴さんを思い出してしまうなとは思っていましたが、それが原因だったのですね。分かりました。すぐに明日から休むよう言いつけます」

「いや、流石にこんな強烈なの気づくでしょ? 嘘だよね? しかもどうして目の前に発情中の龍が居るのに鈴さん思い出すの」


 本気で分からないとでも言いたげな羽鳥に千尋はにっこりと笑った。


「そういう気持ちが向くのは鈴さんにだけなので。たとえ今あの見習いと一緒に入浴してもそんな気になどならないですよ」

「……鋼の精神が過ぎるね。君は自分の発情期にはどうなるんだろうね?」

「さあ……あまり明確な発情期が来た事が無いので何とも。それよりもその書類の訂正箇所の確認をお願いします。期限は明後日までです」

「この状態でそんな事言えるの、多分君だけだよ」


 それだけ言って羽鳥は呆れたように千尋の背中を押して部屋から追い出す。恐らく千尋の着物にあの娘の匂いがついているのだろう。


 千尋はもう一度仕事部屋に戻り、まだぐったりと休んでいる龍の娘に言った。


「ああ、まだ居てくれて良かった。あなたは明日からしばらく休暇を取って下さいと言いに来たんです」

「えっ!? だ、大丈夫です! まだ働けます!」


 千尋の言葉に娘は慌てて身体を起こそうとしたので、千尋はすぐにそれを手で制した。


「あなたはそうかもしれませんが、巻き込まれる者も居るのですよ。次回からは兆候が出たらすぐに自分から休暇申請をしておいてくださいね」


 笑顔で言う千尋に娘は顔を上げた。


「でも仕事に穴を開けたくありません!」

「その心意気はとても立派ですが、その度に倒れられても困ります。何よりも身体は大事にしてください。それでは私はこれで」


 そう言って振り返り部屋を出ると、扉の前には流星が立っていた。


「おや、流星。どうかしましたか?」

「今日羽鳥と息吹と飲みに行くんだけど、君も来ないかなと思って」

「お誘いありがとうございます。ですがお断りします。どうぞ3人で楽しんで来てください」


 一刻も早く帰りたい千尋の腕を流星がむんずと掴む。


「そう言うと思って飲む場所は君の屋敷にしておいたよ。もちろん栄にも許可を取ってある」

「……」


 千尋との距離があると言っていた流星は、今まで以上に千尋と距離を詰めようとしてくるようになった。それは恐らく自分が王になった時の為を思っての事だろうが、千尋からしたら迷惑でしか無い。


「さ、帰ろうか! ところでこの部屋に発情期の奴がいる?」

「……ええ」

「ふぅん。結構強烈だね。さっさと離れよう。でないと君でもいいからってなりそうだ」


 流星の言葉を聞いて千尋はそれ以上抗議をするのを止めた。


「一刻も早く離れましょう」


 そそくさと城から離れ、通りを歩いていると目の端にキラキラと輝く髪飾りが見えた。


「流星、すみません。少し待っていてください」


 そう言って千尋は店先に並んだ髪飾りをしげしげと見つめ支払いをして戻ると、そんな千尋に流星は呆れたような顔をして言った。


「また鈴さんへのお土産?」

「ええ」

「ねぇ、僕の知る限り君は毎日毎日鈴さんへのお土産を買ってる訳なんだけど、もしかして都の物を全て買い占める気なのかな?」

「今はまだ復興中です。街にお金を落とすのは当然でしょう?」

「それは君の場合ただの建前なんだって俺はもう知ってるよ。そんな事じゃ鈴さんの部屋が破裂するよ? 君からの贈り物で」

「もしそうなったら鈴さんの部屋を私の部屋に移すので何の問題もありませんよ」

「……水龍の愛は重いなぁ」

「私も案外発情期に当てられたのかもしれませんね」


 小さく笑ってそんな事を言うと、流星はあからさまに顔を顰めた。


「どんな当てられ方? 同僚が発情期になったからって妻に贈り物を買いまくるとか聞いた事ないよ! あと君の場合は発情期関係なく鈴さんに贈り物するでしょ!」

「そうでした。私は鈴さんにだけは、ほぼ常に発情している状態でしたね」

「……自覚はあるんだ」

「ありますとも。それに心から欲しいと思う気持ちは発情期すら凌ぐという事を知ってしまったので、他人の発情期など私にはさほど問題でもありません」

「君の場合、それを本当にやってのけるから怖いよ」

「そうですか? あなたもそれが分かれば発情期などという物に振り回されなくなりますよ。ところで買い物は良いのですか? うちで飲み会をするのでしょう?」

「大丈夫。もう栄に頼んであるから。あとクッキーも焼いてもらってる」

「そうですか。栄のクッキーも美味しいのですが、何故か煎餅のように固いのですよねぇ……」

「そうなんだよ……鈴さんが作るのと一体何が違うんだろうね」


 鈴が持たせてくれた物の中には簡単なお菓子の作り方を書いた便箋が入っていた。千尋はそれを見て何度か作ってみたけれど、やはり鈴が作る物よりも劣る。何よりもそれを作ることでさらに鈴の料理が食べたくなってしまうので早々に諦めたのだ。そんな千尋に代わって最近では栄が試行錯誤しながら頑張ってくれているが、どうにも固い。全てが固い。


 そんな話をしながら歩いていると、ようやく千尋の屋敷が見えてきた。そこには羽鳥と息吹が既に到着していたようでこちらに向かって手を振っている。


「遅いよ。また買い物しながら帰ってきたの?」


 到着するなり羽鳥に言われて千尋がコクリと頷くと、隣で息吹がおかしそうに笑った。


「流石だな! で、何買ってきたんだ?」

「簪です。最後に鈴さんに会った時、簪が壊れてしまっていたので」


 謙信達の攻撃に応戦したであろう鈴は最後に会った時ボロボロだった。簪は壊れ、着物の裾は破け、それでも千尋の壊れた懐剣と千隼を抱きしめていたのだ。


 今でもあの時の光景を忘れられない。実質地上を守ったのは鈴だ。少なくとも千尋はそう思っている。


 屋敷に入ると屋敷中にクッキーの焼ける匂いが充満していた。その匂いにつられるように息吹と流星がフラフラと直したばかりの屋敷の廊下を歩いていく。


「ところでいつ引っ越すの? そろそろ屋敷建て始めた方がいいんじゃないの?」

「鈴さんたちが来てからですよ。それに屋敷を建てる必要はないです」


 千尋の言葉に羽鳥は少しだけ首を傾げたけれど、それ以上追求をしてくる事はなかった。


「そうなんだ。それじゃあもうしばらくの辛抱だね」

「ええ」


 龍の言うしばらくは百年単位だが、千尋のしばらくは年単位だ。その事が分かっているのか羽鳥は苦笑いを浮かべて言う。

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