「こんなものじゃないわよ……私は菫を二歳になる少し前で手放してしまったけれど、それはもう大変だった……。あの人から菫の成長の手紙が沢山届いたけど、中には涙で滲んでいるのもあったわ……」
そう言って遠い目をしたマチを見て菫が恥ずかしそうにそっぽを向く。
「そ、そんな事言われても覚えてないわよ」
「そうね。でも手紙を読む度に思ったの。私も菫を育てたかった……辛くても疲れ果てても、あなたをこの手で育てたかった……。鈴ちゃん、あなたはこんな後悔をしないようにね。千隼くんの成長をしっかりとその目で見てやってね」
「……はい!」
鈴は今度は菫の膝の上で暴れている千隼を見て微笑んだ。
このマチの後悔はきっと千尋もするに違いない。だから今はしっかりと千隼の成長を鈴が見守ろうと思う。千尋にいつかきちんと伝えられるように。
それから食事を終えてまた街を散策し、フルーツパーラーでお茶をして佐伯家跡地についた時には既に夕方になろうかという時間だった。
「何だか既にこの町並みが懐かしいわね」
通りに立って菫がそんな事を言うが、生憎鈴には分からない。
「私、ここに住んでたのにほとんど何も覚えてないの。菫ちゃん、昔よく行ったって言うお菓子屋さんとか色々教えてくれる?」
「もちろんよ。その為に来たんだから。こっちよ」
夕方だからか通りに人はあまり居なかった。皆、夕食の準備をしているのだろう。あちこちから煮炊きものの良い匂いがしてくる。
鈴は千隼を雅に預けて菫と二人で手を繋いで歩いた。今日の鈴と菫の着物はお揃いだ。こんな風に歩いていると、まるで時間が遡ったようだ。
「この角を曲がると酒屋があるのよ。ここによく父様と買い物に来たわ。父様を間に挟んで私とあんたと3人で。私達が居ると絶対にお菓子をくれたのよ」
そう言って菫は角を曲がって一軒の酒屋を指差す。その店を見て鈴の脳裏にふとある光景が浮かび上がった。
夕暮れ時、勇と菫と一緒に買ってもらったばかりの下駄を鳴らしながら歩く光景だ。
まだ日本にやってきて間もなかった鈴は、それまで菫のお下がりのワラジを履いていたけれど勇が菫とお揃いの着物と下駄を買ってくれて、毎日それを着ていたのだ。鈴はこの下駄の音が大好きだった。
「お揃いの着物、下駄の音……お豆腐屋さんのラッパ……」
「思い出したの!?」
「はっきりとじゃないけど……ちょっとだけ」
言いながら鈴は辺りを見渡していると、後ろから誰かが声をかけてきた。
「あんた……あんた、佐伯んとこの子かい!?」
その声に驚いて振り返ると、1人の老婆がこちらに向かって危なげに駆けてくる。
「おばあ! 走ったら危ないでしょ! 歳考えなさいよ!」
そんな老婆に菫が叫ぶが、老婆は足を縺れさせながら走り寄ってきた。
「その口の悪さは間違いなく佐伯のとこのだ! 今日は父ちゃんはどうした? また警察から何か言われたか!?」
眉を吊り上げて怒鳴る老婆に菫が苦笑いを浮かべて首を振った。
「今日はそんなのじゃないわ。あれはもう片付いたの。神森の家が動いてくれたのよ」
その言葉に老婆は怪訝な顔をして菫を見上げている。
「神森が? あの妖怪屋敷がか?」
「よ、妖怪屋敷ではありません! 立派なお家ですよ!」
老婆の言葉に思わず鈴が隣から口を挟むと、老婆はようやく鈴に視線を向けて目を大きく見開く。
「あ、あんたはあの時の子か!? あの異人の子か!」
「そ、そうです。多分」
あまりの老婆の勢いに思わず鈴がたじろぐと、老婆は途端に涙を浮かべて何故か菫の腕をバシバシと叩いている。
「生きてたのか! 神森に嫁いだと聞いて皆、心配してたんだ! 生きてた! あの異人の子は生きてたぞ、皆!」
老婆が通りのど真ん中で叫ぶ。その声に周りの人達も何事かと振り向くが、そんな老婆を菫が急いで止めた。
「おばあ! 声が大きいのよ! あとこの子は神森に嫁いでそれはもう幸せにやってるわ。神森は皆が思うような家では無かったのよ。今日はそれを言いに来たの」
菫の言葉に老婆はようやく菫を叩くのを止めてじっと鈴を見つめてくる。
「本当か? 神森に何か悪さされてないだろうね?」
「はい。とても良くしてくださっています。あ! そうだ、写真を見ますか!?」
鈴はそう言って懐から写真を取り出すと、それを老婆に見せた。
「これが私で、こちらが神森家のご当主です。千尋さまと言って、それはそれは美しい方なんです」
うっとりと目を細めた鈴に老婆は写真を覗き込んで首を傾げている。
「この女みたいなのが当主? 何だか印象が随分違うね。思ってたよりもずっと美丈夫だけど優男だ……ところであそこの当主は30じゃなかったか?」
「あれは千尋さまの考えた作戦だったのです! 色々と事情のある家だというのは本当の事ですが、私は神森に嫁げて本当に良かったと思っています。それに……」
鈴はそう言って後ろを振り返ると、千隼を見た。千隼はとうとう雅の抱っこから逃れて今は一生懸命壁を伝って歩いている。
「一年前に子どもも生まれました。会ってやってくださいますか? 私はこの町の事をほとんど覚えていません。でもあなたはきっと私に良くしてくれた……そうですよね? お菓子屋のお婆さん」
恐らくこの人が前に勇と菫が言っていたお菓子屋のお婆さんだ。鈴が通りで転がって駄々をこねた時にお菓子をくれた、いつまでも鈴の身を案じてくれていたお婆さんなのだ。
鈴の言葉に老婆はまた驚いたように目を見開き、次いで千隼を見て今度は口をあんぐりと開ける。
鈴は雅とマチに断りを入れて千隼を抱きかかえ老婆に抱かせた。その途端、老婆は笑み崩れて千隼をまじまじと見つめ、一瞬視線を宙に彷徨わせた。
「こりゃたまげた……さっきの女みたいなのは本当に亭主かね……こりゃまた愛らしい子だ……」
「はい!」
鈴が笑顔で頷くと、老婆は笑顔のまま鈴を見上げる。
「ずっと心配してたんだ。佐伯は本当に酷い所だった。そんな所に異人の娘がやってきただなんて、絶対に碌なことにならないってね。案の定、あの娘は神森家に嫁がせただなんて言う。こりゃもう黙ってられないって思ってた所にあの事件だ。佐伯の家が雨に流されてその後すぐに取り壊されただろう? だから余計に心配だったんだ」
「おばあ、その佐伯家を取り壊したのが、その優男よ。この子の事情を知ってその男が圧力をかけたの。佐伯はもう戸籍にすら名前は無いそうよ」
「こりゃたまげたね……そうか、神森は昔から色んな噂があったが、実際にあそこに嫁いだ娘は誰もおらんかった。皆帰ってきたら全て忘れてしもうて、それでもまたあそこに行きたいという。だから神森の家には何かあるに違いないって言われとったが……ようやく神森は嫁取りに成功したんか」
感慨深そうに呟いた老婆に後ろから雅がやってきて笑いながら言う。
「あんたの言う通り、そりゃもう長いこと神森には嫁が来なかったからね。鈴が来てからというもの、神森の当主は今や何でも嫁優先だ」
「あんたは誰だ?」
「あたしかい? あたしはその神森の家の者だよ」
「……あんた、人間じゃないだろう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「何となくだね……生き物は死期が近づいたら世の中の事が少しだけ分かるようになる。この間騒ぎになった龍が出たって話もお上からは集団幻覚だとか雲の見え方だとか発表があったが、あれは龍だった。異人の子、あんたの子も龍だろう?」
「!?」
鈴はあまりにも鋭すぎる老婆に思わず千隼を確認してしまった。まさかこんな所で龍に戻ってしまったのかと思ったが、千隼は角すら出していない。
「ははは! こりゃ参ったね婆さん。あんたには千隼の角が見えるのかい?」
「見えるね。鹿みたいな奴だ。当たってるかい?」
「当たりだよ。それにそんなあっちの世界を悲観しなさんな。あんたは千隼を抱いた。そのおかげで龍の加護が貰えたんだ。次の世界はそれはもう楽しくなるに違いないよ」
雅の言葉に老婆は深く頷いて笑みを浮かべる。
「それは有り難い事だ。人生の最後の出会いに感謝するとしよう。さて、腰も痛いし帰るか。娘婿がまた心配して追いかけてくるからね」
雅と老婆の話を聞いて胸が騒ぐ。何だか悲しい予感がする。それでも老婆は微笑み、腰に手を当ててゆっくりと歩き出した。
「お婆さん! ありがとう!」
鈴は思わず老婆を呼び止め、深く頭を下げる。何を言っていいか分からなかったのだ。お礼ぐらいしか言えなかった。そんな鈴の耳に老婆の軽やかな笑い声と小さな引きずるような足音が聞こえてきた。
「雅、今の話……」
まだ頭を上げられない鈴の隣で菫が震える声で問いかける。
「もうじきだね。でもあの婆さんは自分の役目をちゃんと果たしたんだ。そんな顔するんじゃないよ」
「……ええ」
菫はそれだけ言って鈴の着物をギュッと握ってきた。鈴は千隼を片手で抱いてもう片方の手で菫の手を握る。二人の手は少しだけ震えていた。
記憶にはほとんど無いけれど、あの老婆と出会った時と同じように鈴は菫と手を繋いで老婆が見えなくなるまで、その曲がった小さな背中を見送った。
♠
鈴と最後に会ったあの日から半年が過ぎた。最初の3ヶ月は本当にあっという間に過ぎ去り、忙しい毎日の中で千尋が鈴の事を思い出すのは寝る前ぐらいだったと言うのに、復興に光が見えてきた途端にその他の時間も鈴の事を思い出すようになった。
「はぁ……」