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第378話

 あれが噂に聞く水龍の円環なのだろうか。千尋の身体は一つしか無いというのに、もしかして全世界の空の上でこんな事をしているのだろうか。


 鈴はゴクリと息を呑んで空を見上げて大声で歌い始めた。この声が千尋に届くことなど万に一つも無いだろうが、それでも何かしなければと強く思ったのだ。


 鈴が歌い始めると、背中にずっと感じていたビリビリとした力がより強くなった。驚いて鈴が振り返ると、そこには小さな水色の龍が何やら身体をブルブルと震わせている。


「千隼! 変身出来たの!?」


 何故今なのだ! そう思いつつ鈴は急いで千隼を背中から下ろして抱き上げた。


 一体千隼に何が起こったのか訳が分からずしばらく呆然としていた鈴だったが、突然空が激しく光った。


 驚いて頭上を見ると、真っ直ぐにこちらに向かって一筋の大きな矢が降り注いでくる。


 鈴はそれを見て急いで千隼を片腕で抱きかかえて剣を構えたが、構えた途端に剣はとうとう澄んだ音を響かせて粉々に砕け散てしまった。


 矢は少しのスピードも落さず真っ直ぐに鈴達の上に落ちてくる。


「っっ!」


 鈴は千隼だけでも守らなければならないと思い、その場に千隼を抱きしめて蹲ろうとしたその時だ。


 突然千隼が身体をくねらせて空を仰いだかと思うと、その身体には似合わない雄叫びを上げた。その声は千尋の声のように輝き鈴の声のように澄み渡っている。


 そして次の瞬間、矢が目の前でまるで霧のように霧散してしまったのだ。


「ち、千隼?」

「ゔーーーーーー!」


 千隼は低い唸り声を上げて鈴の二の腕を掴み、もう片方の手で千尋の鱗を握りしめている。


 ふと足元を見ると地面から水が染み出してそれは全て小さな水色の矢に姿を変えた。かと思うと、それらの矢は一瞬にして空に向かって飛び立ち、見えなくなってしまったのだ。


「千隼? 何してるの? ねぇ、そんな事して大丈夫なの?」


 この光景は以前にも一度見たことがある。一番最初に龍に屋敷を攻撃された時、千尋がした事と同じだという事に気づいた鈴は、慌てて千隼に辞めさせようとしたけれど千隼は唸るのを止めない。


「千隼! 止めなさい! 駄目だよ! あなたに何かあったらどうするの!?」


 龍が力を使うという事をずっと千尋の間近で見てきた鈴だ。こんなにも幼い身体で力など使って、もし千隼に何かあれば鈴の心はきっと砕けてしまう。


「ゔゔゔ!!!」


 鈴の言う事も聞かずに千隼はそれでも唸るのを止めない。その間にも小さな矢は次から次へと空に物凄い勢いで昇っていく。


「千隼……」


 全く言う事を聞いてくれない千隼に鈴は泣きそうになったが、千隼が鈴を助けてくれた事も事実だ。


 鈴はまだ唸っている千隼を抱きしめ、涙を浮かべながら千隼に頬ずりをしてそんな思いを込めて静かに歌い出した。


「Amazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me.――」


 千尋はいつもこの歌で心を落ち着かせる。もしかしたら千隼もそうなのではないかと思って歌い始めると、効果はてきめんだった。


 それまで暴れていた千隼が徐々に落ち着きを取り戻し、鈴を見上げて呆然としている。


 先程の矢が最後の攻撃だったのか、いざという時は近くにある洞穴に千隼を投げ込んで自分が囮にでもなろうと考えていた鈴だったが、その後いつまで経っても次の矢は降り注いで来ない。


 その事に気づいた鈴は千隼を抱きかかえてその場に力なく座り込んだ。


「……良かった……ありがとう、千隼。ママを助けてくれて。でも危ない事はしないで。ママ泣いちゃう」


 そう言ってようやく落ち着いた千隼に話しかけると、千隼まで泣きそうな顔をして鈴の顔に千尋の鱗を押し付けてくる。


「あー……」

「慰めてくれてるの? やっぱり千隼は優しい子」


 千尋の鱗にキスをして千隼の頬にもキスをしたその時、空がまた青白く光った。


「見て、千隼。パパが頑張ってるよ。千隼にありがとうって言ってる」


 何となくそんな気がして空を指差すと、千隼も空を見上げて声を上げて笑っていた。



♠ 

「っ!」


 千尋が矢を追おうとしたその時。


「偉大な水龍よ、驕り高ぶるからこうなるのだ! 最愛の妻とやらは幸せな物語が好き? 知った事か! お前の妻は私の矢に貫か――れ……?」


 勝ち誇った謙信が突然身を捩らせた。その背中には深々と水色の矢が突き刺さっている。それは千尋の物ではない。では一体誰の――。


 千尋が驚いて下を見下ろすと、下から水色の矢がいくつも飛んでくるのが見えた。


「まさか、千隼?」


 千尋の物ほど大きくは無い、まだ発展途上とも言える小さな矢は鈴の瞳の色とよく似ていた。そしてそれらは全て謙信の急所に突き刺さる。


「な、誰、が、がはっ……加護、か?」


 体中に水龍の矢を浴びた謙信が苦しそうに喘ぎ地上を見下ろしているが、千尋はそんな謙信の目の前に移動すると懇願するような謙信の顔を覗き込んで微笑んだ。


「誰が、と聞きましたか? これは全て私の息子の矢ですよ」

「むす、こ、だと?」


 千尋の言葉に謙信の目が大きく見開かれる。


「ええ。あなた達が虎視眈々とあれこれ画策している間に、私に息子が生まれたのですよ。あなた達が卑屈に物事を考えている間に、私は世界で最も尊いものを手に入れたのです。あなた達が自分たちの権力を誰かに振りかざしている間、私はようやく自分の物語を描き始めました。私と妻と息子の幸せな物語を。そこにあなたのような人は必要ありません」


 そう言って千尋は悶え苦しむ謙信の胸に指先を当てた。それと同時に謙信の顔が苦痛に歪み、光り、そして音もなく消えていく。


「さようなら、謙信。またいつか」


 振り返るとそこには既にほとんど誰も残ってはないなかったが、残りの龍たちも何故か次から次へと叫び声を上げて地上に落ちていく。


 耳を澄ませると混乱の中からこんな声が聞こえてくる。


「そいやぁ! ほら、もういっちょ!」

「……黒い悪霊」


 龍の叫び声の合間から聞こえるのは間違いなく雅の声だ。


 千尋は腕を上げて円環を落ちていく龍めがけて放った。地上に仇なす全ての龍を殲滅する。それが今の千尋の役目だ。


「千尋さま!」


 程なくして全ての龍が居なくなった頃、楽がこちらに向かって飛んできた。その頭には黒猫が一匹と狐が二匹ちょこんと乗っている。


「……あなた達、都の龍よりも勇敢ではないですか。それで鈴さんは?」


 都ではきっと千眼の軍が暴れていて余裕が無いのだろうが、誰一人としてこちらにやっては来なかった。


 それなのに、地上からわざわざ駆けつけてくれた楽達にはのちのち報奨でも出すべきかもしれない。


 千尋の言葉に雅は苦笑いを浮かべた。


「鈴と千隼には逃げろって言ったんだけどね。さっきのあいつにぶち刺さった奴、あれ千隼だよな?」

「分かったのですか?」

「分かるさ! あんたのとは違って鈴の目の色そっくりだったからね!」

「そうですか……ありがとうございます、皆さん」


 千尋はそう言って頭を下げると、そんな千尋に楽が言う。


「それから鈴から伝言です。いつまでもお慕いしています。だ、そうです!」


 それを聞いて千尋は居ても経ってもいられなくなり、地上目指して真っ直ぐに舞い降りた。そんな千尋の後ろから楽の叫び声と雅の笑い声が聞こえてくる。


 千尋は屋敷の上まで来ると鈴の姿を探した。


 けれど鈴はどこにも居ない。


 その時、どこかから鈴の声が聞こえた気がして振り向くと、あの山の頂上で泥だらけになった鈴がこちらに向かって手を振っているのが見えた。その腕にはしっかりと千隼を抱きしめている。


「鈴さん! 千隼!」


 今はまだ昼間だ。人目だってあるしこんな勝手な事をしたらきっと色々な所から叱られてしまうだろう。


 それでも千尋は会いたかった。鈴に、千隼に。どうしても。


 鈴の元まで移動した千尋は人型に戻って声もなく鈴と千隼を強く抱きしめた。


「……千尋さま」

「うーう!」

「……」


 鈴の前でもう何度涙を見せたのだろう。レコードでいつも聞いている雑音が入った鈴の声は、本来こんなにも美しかった事を思い出して千尋はさらに強く二人を抱きしめる。


 声も無く涙する千尋の背中に鈴の腕が回された。その温かさは言葉にできない。


「伝言を聞きました。すみません、居ても立っても居られなくなって下りてきてしまいました。鈴さん、千隼、必ず迎えに来ます。約束です」

「……はい、約束です。あと、この事は誰にも内緒、ですよね?」


 鈴の言葉に千尋が顔を上げると鈴も千隼も笑っていた。鈴は目に涙を浮かべているが、その笑顔はどこにも憂いが無い。そんな鈴を見てようやく千尋も微笑む事が出来た。


「ええ、誰にも内緒です。では私は最後の一仕事をしてきます」

「はい。お気をつけて。それからどうか、お元気で」

「ええ。あなた達もどうかお元気で。また会えるその日まで。それから……ありがとう、二人とも」


 千尋は千隼の頭を撫で、涙ぐむ鈴に深い口付けをすると龍に戻ってその場で一度だけ旋回して空に戻る。ほんの一瞬の逢瀬は思っていたよりも千尋の心を回復させた。


 空に戻って楽達に簡単に別れの挨拶をしてすぐさま都に戻ると、都は荒れ放題だった。一体どれほどの龍が襲ってきたのかと思うほど荒れ果て、今も暴れている。

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