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第377話

 雅は化け猫になるまでは本当に可愛い猫だった。毎日取ってきた獲物を見せに来る。夏になると口の中にセミを入れて帰ってきて、そのあまりの煩さに千尋を何度も困らせたりした。


 猫又になった雅はそれからしばらくして千尋の片腕になるようになった。この頃には千尋は色んな動物を助けていて、何故か千尋が助けると妖怪になってしまうという現象が後を絶たなかった。その良い例が雅と、あの狐一族である。


 時代が過ぎあの楠がすっかり大木になった頃、千尋はふと思い立って歴代の花嫁たちの石碑を作った。何人もの花嫁達を犠牲にしてこの地上は今日も正しく周っている。いつしかそれすら忘れてしまいそうだと思ったのがきっかけだ。


 石碑に名前が増える度、千尋の心は軋んで何かを失った。この先もずっとこんな風に年端もいかない少女たちを犠牲にし続けなければならないのか。そんな風に悩んだ事もあったけれど、その根本を変えようとまでは思わなかった。


 ただ都と居た時と同じように自分の心を閉ざすことでやり過ごす道を選んだのだ。


 穏やかで退屈で楽しみも感動も何もない時間は都と居た時と何も代わり映えがなかった。いつしか地上に下りてきた時に感じたあの心の弾みも消えて無くなってしまっていた――。


『あ、ありがとうございます』


 視線を伏せて驚いたような恥ずかしいような顔をした鈴が初めて千尋にお礼を言ったのは最初に千尋が鈴の外見を褒めた時だった。きっと鈴もこの外見のせいで苦労したのだろう。そう思って思わず褒めただけだったが、鈴にとってはそれはとても大きな出来事だったのかもしれない。


 鈴の側に居ると居心地が良い。そんな事に気づいたのはいつだっただろうか。どれだけ思い返してもその瞬間はもう思い出せない。


 それはきっと明確な何かがあったからではない。気がつけば千尋は鈴の空気に、声に、言葉に、表情に、仕草に惹かれていたのだ。


 色んな物を失うばかりだった千尋にとって、鈴は唯一と言っても良いほど何かを与えてくれる人だった。


 けれどそれは鈴と居る事で違ったのだと思い知る。何かを失う恐怖から身を遠ざける為に千尋が自ら進んで選んだ道だったのだ。だから長い間、雅や喜兵衛、弥七、その他の人達や生物と距離を取り続けていたに過ぎなかったのだ。


『私はあなたのように誰かを愛したかった。あなたのような人に愛されたかった』


 あの言葉は千尋の心の奥底から思わず溢れた言葉だ。その言葉を聞いて鈴は一体何を思ったのだろうか。


 そんな鈴との関係が進み、息子が出来た事で千尋の中にはある強い想いが芽生えた。絶対に守りたい。失いたくない。


 今までも感じたけれど、それとは比にならない程の強い想いが、千尋の背中を今も押し続けている。


 千尋が目を開いたと同時に角が青白く光り、全身の鱗がこの時を待っていたとばかりにビリビリと震えた。


 辺りが一瞬、白く光った。謙信の雷だ。そしてその光が合図だったかのように、それまで蠢いていた龍たちが空に大きな円を描いて大きな積乱雲を取り囲む。その中央には大きな矢が今にも暴発しそうな程の光りをいくつも放っていた。


 それを確認した千尋は深呼吸をして円環をゆっくり配置しはじめる。


「早く次の準備をしろ! あの屋敷さえ壊してしまえば千尋は完全に壊れる! そうなれば我々は勝ったも同然だ!」


 謙信が叫ぶと、龍たちは咆哮して自分たちの力をさらに積乱雲に送り込んだ。


「そんな事をさせる訳ないでしょう? 申し訳ないですが、あなた達はここで終わりですよ」


 静かに呟いた千尋の声に謙信が振り返り千尋の周りに浮かぶ円環を見て薄く笑った。


「思いの外早かったじゃないか。それにしても大した量の円環ではないが、最愛の妻が居ないと本領を発揮できないのか?」

「そうですね。鈴さんが居ればもう少し落ち着いた行動が出来たかもしれませんが」

「残念だよ、千尋。お前とこんな風に袂を分かつ事になるなんてな」

「私も残念ですよ。今まで優秀であればそれで良いなどと考えていた自分の甘さをこれほど後悔した事はありません」

「言ってくれるな、相変わらず。だがお前はこの矢を止める事が出来るのか? 言っておくがこの矢はここだけじゃない。地上の全てを今や覆い尽くしている。あの浅はかな生き物達はもう逃げ場などない。無論、お前の大切な花嫁もな」


 謙信の言葉に千尋はいつものように微笑んだ。


 やはり思った通りだ。いくら探しても謙信と千眼が見つからなかったのは、全ての龍たちを世界中に配置していたからだ。


 もちろんそんな勝手を他の場所に住む龍が黙っている訳がないが、ここで起こった事の尻拭いはきちんと自分たちでしなければならない。


「本当に残念ですよ、謙信」

「ああ、俺もだよ、千尋。たとえお前の花嫁は守れても、地上を救う事は出来ないだなんてな」


 それだけ言って謙信が手を上げた。それと同時にどこからともなく轟音が鳴り響き、いくつもの大きな矢が真っ直ぐ地上の千尋の屋敷の上に降り注いぐ。


 そしてそれは地上の空全てで起こった。ふと辺りを見るとどこの空も淡く光っている。


 千尋は今も地上で屋敷を、家族を守っているであろう鈴の姿を思い浮かべながら、大きく息を吸って怒鳴った。


「守るべき者の区別もつかぬ愚か者ども。龍の誇りも信念も忘れ、己の欲に溺れた哀れな者達よ。お前たちのしてきた事を私はこれ以上看過する事は出来ない。よって、私は烏滸がましくも神に変わり、お前たちに報いを与えよう」


 その声はどこまでもどこまでも遠くへ響いた。その瞬間だけは全ての音が消え、空が静まり返った。


 千尋がゆっくりと目を閉じた次の瞬間、辺りを青い光りが支配して全ての円環が動き出した。円環の矢は躊躇うこと無くその場に居た龍の急所に消えていく。その途端、龍は叫び声を上げることもなく淡く光って消えていく。


 不思議なことにその間中ずっと、鈴の歌がどこからともなく聞こえていた気がしていた。それは幻聴だったのかもしれないが、鈴の歌声はいつだって千尋の力になる。


 音もなく始まった反撃にそれまで優位に立っていた龍たちが慌てだした。それを見て謙信が怒鳴りつける。


「慌てるな! 避ければ良い! 円環の矢を操ることなど不可能だ!」

「さてそれはどうでしょうか? あなた、私を見くびっていませんか?」


 手を広げて円環を今も作り続けながら千尋が言うと、一人の龍が逃げ惑いながら叫んだ。


「避けられません! 追尾されています!」

「何だと!? そんなはず――」

「確かに千眼には出来ませんでしたね。恐らく王にも出来ないでしょう。ですが、私は原初の龍の生まれ変わりですよ? こんな事は容易い事だとは思いませんか?」


 そう言って千尋が手の平をスイっと動かすと、円環から出てきた矢が謙信に狙いを定めた。


「……本気か?」

「もちろん。諸悪の根源を退治しなければ、真の幸せは訪れません。どんな物語でもそうでしょう? 私の妻はとにかく幸せな物語が大好きなのです。ですから私は一生をかけて妻を幸せにしなければならない。そして妻と私の物語が終わる時、妻に心から幸せだったと言わせなければならないのですよ」


 微笑んだ千尋の言葉に謙信がようやく焦りの表情を見せた。いつもの千尋であれば脅しはしても本当に殺してしまう事はしなかっただろう。そしてそれは謙信もそう思っていたはずだ。


 けれど千尋は見てしまった。いくつもの矢が地上を襲うのを。あの愛しい屋敷に降り注ぐのを。そしてそれをしていた龍たちは皆が笑みを浮かべていたのを。


 それは完全にただ単に虐殺を喜ぶ残忍で愚かな生物の顔だった。


「愚かですよ、本当に。いつまでも誰が上だとか下だとか言っているあなた達は本当に愚かです。一度大気に戻り世界の全てを見てくるべきです」


 千尋はスッと手を上げた。すると、謙信を狙っていた矢はゆっくりと謙信の側まで行き、胸の前でピタリと止まる。


 その行動に謙信は引きつった笑みを浮かべて早口で言う。


「やはりお前は理性的だな。こんな時でも高官を殺める事はしないのだから。利己的だなどと言っていたが、最後の理性は残っていたようで安心し――」

「誰が許すと言いましたか? あなたは最後。それだけです」


 千尋は穏やかな笑みを浮かべたまま周りを見ると、円環の矢に追われていない一匹の赤い龍を見つけた。 


「楽?」


 ついそちらに注意を向けてしまったその時、謙信が身を翻して円環の矢を振り切り、空に舞い上がった。それと同時に一つの大きな矢を作り上げ、千尋が止める間もなくそれを地上に振り下ろしたのだ。


 矢はその速さを少しも緩めずに真っ直ぐに地上に落ちていった。



♥ 

 瞼の裏に感じる青白い光りはどこか懐かしい。これはきっと千尋の力だと本能的に鈴は理解した。


 あの高い雲の向こうで千尋がまさに今、この地上の為に、そして鈴の為に戦ってくれているのだと思うとそれだけで胸に熱いものが込み上げてくる。


 鈴はゆっくりと目を開いて空を見渡した。


 すると、あちこちの空で青白い稲妻のようなものが光っているのが見えた。


 鈴は急いで千隼を背負ったまま千尋とデートした屋敷の裏の山を駆け上り、息を切らしながら街を見下ろすと、よりはっきりとそれが分かる。


「千尋さま……」


 ここから見渡すだけでもあの青白い光が至るところに現れては消えていくのを確認した鈴は、胸にかけた千尋とお揃いのお守りをギュッと握りしめた。

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