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第376話

「無茶苦茶なのは分かっています。ですがあの雲を見たでしょう!? あんな不気味な雲が現れたという事は、とうとう王様が退陣されたという事です! 千尋さまは仰りました。王が下りたら地上と都に総攻撃を仕掛けてくるだろう、と。ではまずどこから攻撃しかけてくるのか。それは考えなくても分かります! 間違いなくここです! ここで食い止めなければ、きっと他の場所にも同じことをするに違いありません! だから何としてでもここで食い止めなければならないのです!」


 鈴はそう言って懐剣を握りしめてリビングを出た。


 背中では千隼が無言で千尋の玉を握りしめているようだが、ビリビリとした千尋によく似た力がさっきからずっと鈴に伝わってきている。


「千隼、ママに力を流してくれているの?」

「ゔーー!!」


 いつもの澄んだ声ではない力強い千隼の声に鈴は頷いて玄関に向かうと、後ろから皆が駆け寄ってきた。


「あんた達だけ行かせる訳にいかないだろ!」

「そうだぞ! お前は本当に馬鹿なんだから!」

「こんな場面であなただけ行かせてしまったら、自分たちは千尋さまに金輪際顔向けが出来なくなってしまうじゃないですか」

「全くだ。鈴の威勢の良さは本当に誰に似てるんだ?」


 呆れたような弥七の言葉に鈴は振り返って満面の笑みを浮かべて言った。


「mumとdadですよ!」


 と。


 鈴は胸に抱えた懐剣を強く握りしめた。ここからではあの分厚い雲の上で何が起こっているのかさっぱり分からないが、あの巨大な雲が異常な事だけはよく分かる。


 背中では千隼がまだビリビリと角を震わせていた。そんな千隼の頭をどうにか撫でると、鈴は屋敷の人たちを背中に庇って空を睨みつける。


「来るぞ!」


 楽が叫んだその時、空から轟音と共に矢のような大きな雷が物凄いスピードで落ちてきた。 


「皆、しっかり隠れていてください! 楽さん、結界をお願いします!」


 鈴は懐剣をもう一度握りしめて空に向けた。それと同時に懐剣が勝手に動いて大きな矢を受け止めたかと思うと、矢は一度剣に吸収されて薙ぎ払われた。


 薙ぎ払われて勢いが逸れた矢は弥七が大事にしている花壇に突き刺さり、あっという間に音もなく消えてしまった。


「ど、どうなってんだい? あの矢の力は……?」


 雅の言葉に鈴も首を傾げる。そう言えばこの懐剣で応戦した時はいつもそうだった。矢は一度この懐剣に吸収され、弾き飛ばすとどこかへ刺さって消えてしまう。今まで深く考えた事は無かったけれど、考えてみれば不思議な話だ。


 鈴は思わず握りしめていた懐剣をじっと見つめた。


「その剣が矢の力を全部吸収してるんだよ。お前についてる千尋さまの加護と一緒で」

「そうなのですか!」


 それを聞いて思わず喜んだ鈴を見て楽は付け加えるように言った。


「でも限界はあるぞ。その懐剣が蓄積出来る力を上回ったら、その懐剣は壊れる。そうなったら本当にお終いだ」

「!」


 今までこの剣は既に大量の龍の力を受け止めてきたはずだ。しかも今の矢で終わるとも思えない。鈴がゴクリと息を呑んだその時、また剣が勝手に動いた。驚いて空を見上げると、今度はいくつもの矢が降り注いでくる。


 懐剣はその全ての矢を受け止めて薙ぎ払った。


「皆さん、千隼を連れて早くここから離れてください!」


 楽の言う事が本当だとしたら、この剣ももうじき使えなくなるだろう。その後は千尋の加護だけが頼りになるが、千尋の加護もいつまで持つか分からない。


「何言ってんだ! 死なば諸共だよ! 楽、あたしを乗せて空に昇りな!」

「な、何する気!? 姉さん!」

「王が退いたって事は、つまり都の規律が撤廃されたんだろ? だったらあたしがあっちに行ったって何も問題ないんじゃないかい?」

「そ、そりゃそうかもだけど、そんな無茶苦茶な!」

「それじゃあ、あんたはここで黙って鈴が倒れるのを見てるのかい!? あんた千尋の長男だろ!? さっさと腹くくりな!」


 雅に言われて楽は下唇を噛んでいたかと思うと、キッと顔を上げて龍の姿に戻り背中に雅を乗せた。


「姉さん、俺達も行くぞ!」

「弥七さんまで!?」


 鈴が驚いて振り向くと、そこには完全に狐の姿に戻った弥七と喜兵衛が座ってこちらを見上げていた。


「あんた達に何が出来るってんだい!?」

「自分達には幻術が使えます!」

「そうだ。姉御、俺達が狐の妖だって事、忘れてんじゃないか?」

「……そういやそうだね。すっかり忘れてたよ。それじゃ、あんた達は楽の上からあたし達の姿を隠してくれ。どうせ山程の龍が集まってんだ。シレっと混ざったら見分けなんかつかないだろうからね」

「そ、それは流石に気づくんじゃ……」


 ぽつりとそんな事を言う喜兵衛を雅は睨みつけると、雅と喜兵衛、そして弥七は楽の背中に乗り込んだ。


「だ、駄目です! 皆さん、今すぐ下りてください!」


 そんな皆に鈴は叫んだが、誰も聞く耳を持ってくれない。それどころかこちらを見下ろして怒鳴ってきた。


「あんたは今すぐここを離れて菫のとこに行きな! ここは完全にあっちに的にされてんだから! いいね!?」

「嫌です!」


 どうして皆、鈴を置いて行こうとするのだ! そう叫びたかったが、分かっている。本当の鈴はこの状況で何の役にも立たないという事を。


 鈴は下唇を噛み締めて皆を見上げるが、皆は何故か満足げな笑顔を浮かべている。


「いいかい、あんたは神森家の花嫁だ。千尋の花嫁だ。あんたがここにやってきてからした全ての事は、それはもう偉大な功績なんだよ。そしてそれはあんたにしか出来なかった事だ。あんたが家族を守りたいと願うように、あたし達だってあんたと千隼を守りたいんだよ。あたし達は長年千尋を側でずっと見続けてきた。言わばあたし達の主だ。その主があんな顔で笑うようになったのは全部あんたのおかげだ。ありがとね、鈴。あたし達はあんたが思ってる以上にあんたに感謝してるんだよ」


 雅の言葉に全員が真っ直ぐこちらを向いて頷いた。そんな皆を見て鈴は思わず涙を浮かべた。


「絶対に、絶対に無事に戻ってきてください。約束です。神森家の当主として、これは命令です」

「分かってる。誰があんたを一人にするもんか」

「そうですよ、鈴さん。自分はまだあなたに教えたい事が山程あるんですから」

「俺だってお前のハーブティーの研究にまだまだ付き合ってやらないとだしな」

「そうだぞ。それに俺は千隼の兄なんだ。ちゃんと戻って来るよ。だからそんな顔すんな。もし千尋さまに会ったら何か伝言はあるか?」

「……はい……はい! それではいつまでもお慕いしていますとお伝えください」


 どうにか涙が溢れるを堪えて鈴が返事をすると、皆はようやく満足げに頷いた。


 そして一拍の間を置いて空に真っ赤な龍が駆け上っていった。


 しばらくポツンとその場に取り残された鈴だったが、皆に言われた通りその場から離れようとしたその時、突然千隼が叫ぶ。


「ゔー!!!」


 声にならない唸り声を千隼が上げたその時、空に青白い閃光が迸った。それは太陽の光りさえも遮ってしまう程の明るさで、思わず鈴は目を閉じた。



 千尋は移動中、ずっと思い出していた。


 あの日、地上に堕ちた時から今までの事を、ずっと。


 何も無い野原に放り出された千尋は途方に暮れたように辺りを見渡し、どこかから風で飛ばされて来たのかも分からない、小さな木の実をそこに埋めた。今日からここが千尋の住む所だ。


 あまりにも何も無くて途方に暮れてはいたが、都から抜け出した事に千尋はどこか胸を弾ませてもいたのだ。


 しゃがみこんで木の実を埋めながら千尋は木の実に囁きかけた。


「あなたが地上に下りてきた私の一番の友人になってくれるよう、祈っていますよ」


 土に埋められたその木の実に千尋の声が届いたかどうかは分からないが、木の実はそれから2、3週間ほどで発芽し、気がつけばぐんぐん育っていった。


 その間、千尋は地上に蔓延する飢餓や疫病と戦い、地上の生物の逞しさや儚さを身を以て体験していた。


 この頃の地上の生物はまだ色んな種類の者が居た。目には見えない妖怪と呼ばれる者や、すっかり絶滅してしまった昆虫、動物など、まだ人間以外の生物が至る所に住んでいたのだ。


 千尋が埋めた木が楠だと分かった頃、ここにもぽつりぽつりと人が住み始めた。千尋は人の姿で時折その者たちに助言をしては山に帰って行く。そんな千尋の事を彼らが何と呼んでいたのかは分からないが、ある時千尋が住む山の入口に小さな祠が立った。


 それから数百年、まだ妖怪や神が人々の前に姿を現していた頃、千尋の住む所には立派な神社が建てられた。


 この頃になると時の権力者には千尋の正体を明かしていた。そうしなければ皆が怯えてしまって龍の姿で街や村を監視する事が出来なかったからだ。


 千尋はその神社の本殿に住んでいたが、そこには誰も足を踏み入れさせはしなかった。


 この頃の千尋は外に出かける時は龍の姿で、本殿に戻ると人の姿をしていた。


 最初は龍の姿になる事など滅多に無かったのだが、人の姿の千尋はこの国の人とはあまりにも見た目が違うという事で何度も石を投げられたり迫害されて嫌気がさしたのだ。


 見た目は龍よりもずっと近いはずなのにこんな仕打ちを受けるのか。本当にこの国は守る価値があるのだろうか。日々、こんな事を考えていたのをよく覚えている。


 そんな日々が続いたある時、千尋は一匹の黒猫を助けた。後の雅だ。

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