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王がとうとうその王座を下りたのは、千尋が都に戻って一月程経った頃だった。
「手続きにこんなに時間がかかるのであれば、私はまだもう少し地上にいられたのでは?」
ぶつくさ言いながら使用済みの書類を片付けながら千尋が言うと、王を離宮という名の監獄まで護衛して帰ってきた流星が苦笑いを浮かべた。
「まぁそう言わないで。君が戻って牽制しなかったら、今頃地上に龍の矢が降り注いでいたかもしれないんだから」
「それはそうですが……」
言いながら千尋はちらりと視線を壁に向けた。そこには鈴と千隼が笑顔で写っている写真が飾られている。そのおかげで苛立ちは少しだけ改善され、また書類仕事に大人しく戻った千尋を見て羽鳥が笑った。
「息吹の作戦は成功したみたいだ。この調子で何枚か仕事場にも写真を飾ったらどうかな?」
今、千尋の屋敷には至るところに鈴の写真が飾られている。それは全て息吹が勝手にやった事だ。
「そうだろ~? 千尋のイライラの原因は鈴がここに居ないって事に過ぎないからな! だったらそこら中に写真貼っといてやれば心も落ち着くだろ」
「そんな単純な話だったの? 今まで散々八つ当たりされてた俺達の立場ってなんなの」
笑顔の息吹と呆れる流星の顔はとても対照的だ。
「職場には写真など飾りませんよ。誰がその写真を見るか分かりませんからね」
「どうしてだ? そこから会話が広がってお前にも沢山の友人が出来るかもしれんぞ?」
不思議そうに首を傾げる栄に千尋は結んでいた髪を解いて首を振った。
「私は別に職場で友人を作る気などありませんよ。それにどこかの誰かが写真を見て鈴さんに懸想しては困りますからね」
「そんな事ある訳――おい、どこ行くんだ?」
「温室です。私の仕事は終わりました」
「……早くない?」
まとめた書類を流星と羽鳥の前に押しやって一旦自室に戻った千尋は、バイオリンと蓄音機を持って温室に向かった。
温室には沢山の鈴蘭が日を浴びてキラキラと透けるように輝いている。そんな姿は本当に鈴にそっくりだ。
「さて、それでは始めましょうか、鈴さん」
千尋はそう言って蓄音機を操作して鈴の歌が入ったレコードをかける。
すると温室中に機械の音が鳴り響いたかと思うと、次いで鈴の透明な歌声が流れ出した。千尋はそれに合わせるようにゆっくりとバイオリンを弾き始めた。
目を閉じるとまるで目の前で鈴が笑顔で歌ってくれているようだ。こうしていると、幾度となく過ごした鈴との時間がいとも容易く蘇ってくる。
綺麗な声だ。こんなにも優しい声を持つ人間が自分を愛してくれているのか。そう思うと切なくて苦しくなる。それでもこの時間は千尋にとってとても貴重で有意義な時間だ。
鈴と出会った日から別れる日までの事をここで思い出しながら空想上の鈴との音楽会を千尋は毎日開いているが、こんな事をしていると知ったら鈴はどう思うのだろう。願わくば鈴も同じような事をしていてくれたら嬉しい。
ところがこの至福の時は、ある日を境に突然終わりを告げた。とうとう千眼達が動き出したのだ。
王が退陣して半年。その日、千尋は新しく買い取った土地の見学に来ていた。ところがそれは長くは続かなかった。それまで穏やかだった空に突然あちこちから雷を伴う雲が都の上に流れ込んできたのだ。
そして雲の切れ間から雷のような矢が地上に降り注ぐのが見える。
「栄、戻りますよ」
「ああ」
その方角を見て千尋は急いで屋敷に戻った。
「千尋くん! 大変だ、今部下から連絡があって――」
「襲ってきたのでしょう? どこです? 被害状況は?」
「うちの実家のある街だよ。あと地上にもだ。悪いけど少し抜けてもいいかな?」
いつもの羽鳥からは考えられないような表情で静かに言う羽鳥に千尋と流星は無言で頷いた。
「息吹はどうしたのです? 偵察ですか?」
「いや、先に城に戻って指揮を取ってくれてる。俺も行くよ」
「ええ。では計画通り私は都の外へ出ます。後で合流しましょう」
「ああ。頼んだよ。もう何してくれてもいいから!」
思っていたよりも被害状況が大きくなっているのか、流星はさっきから届き続ける羽鳥のカラスからの情報を見て眉を釣り上げた。
「分かりました。次期王の言質は頂きましたよ。栄、あちらは恐らく既に地上の全てを包囲しているはずです。あなたはすぐに全世界の龍、そしてドラゴンに決して私の円環に触れないように、と通達を」
「全世界の龍とドラゴンに?」
「ええ。これは何も日本だけの話ではありません。ですから地球の裏に住む同胞達にも知らせてください」
「わ、分かった」
王が退陣した事で都の結界は全て取り払われ、今は誰でも都の外に出る事が出来るようになっているが、もちろんその逆も然りだ。
千尋はそれだけ言うと屋敷を出て雲がまだ集まっていない、敵が薄い所から全速力で都の外に出た。謙信達がまず狙うのは鈴達に違いない。
千尋が懸念した通り、龍たちは地上の千尋の屋敷に分厚い雲を集めていた。その先頭に居るのは他の誰でもない謙信だ。
遠目に謙信は早口にあれこれと集まった龍たちに指示を出している。
雷を伴う雲は轟音を立てながら逆巻き、大きな矢に形を変えた。一人一人の力が弱くとも、大きな積乱雲を操ってまずは千尋の大切にしている屋敷を取り壊してしまおうと考えているのだろう。
「どうにか持ち堪えてください、鈴さん……」
ぽつりと呟くと、千尋は静かに目を閉じた。
あの丘から見た地上に落ちた雷は間違いなく神森家の方角だった。
瞼の裏に浮かぶのは鈴の甘い笑顔だ。目を細めて千尋の名を呼び、駆け寄ってくる鈴の笑顔だった。
「本当に、あなた達はどこまでも私の逆鱗を逆なでするのですね」
♥
事件が起こったのはそれからすぐの事だった。その日、鈴は千隼をおんぶしながら洗濯物を干してくれている楽にいつものように話しかけていた。
今となってはあの時に楽と何の話をしていたかさっぱり思い出せないが、いつも通りきっと他愛もない話だったのだろう。
「それで菫の奴、俺に何て言ったと思う?」
「何て言われたんですか?」
「それが――」
続きを言おうとして楽がこちらを振り向いたその時、鈴の背中で突然千隼が暴れ出した。振り向くと千隼はせっかく上手く隠せていた角を出し、その角が微かに光っている。
「が、楽さん!」
「ヤバい、何か来るぞ!」
楽がそう言ってこちらに駆け寄ろうとしてきたその時、頭上で何かが弾けるような轟音が鳴り響いた。
思わず楽と空を見上げると、さっきまで雲一つない青空だったのにいつの間にか大きくて黒くて不気味な雲が浮かんでいる。
「鈴! 屋敷に戻れ!」
「駄目です! 楽さんも――っ!」
あれは良くない雲だ。本能的にそう感じた鈴が楽の腕を掴んだその時、二度目の轟音が鳴り響く。その声に呼応するかのように背中の千隼が奇声を上げだした。こんな事は珍しい。
「ち、千隼?」
「あんた達、早く屋敷に入りな! 楽、できる限りの結界を張るんだよ!」
鈴が背中の千隼に問いかけたのとほぼ同時に屋敷から雅がこちらに向かって叫んだ。それを聞いて鈴と楽は慌てて屋敷に戻ってリビングに移動すると、そこには既に喜兵衛も弥七も居る。
鈴は窓から外を見上げると、あの不気味な雲は今もどんどん大きく暗くなっていく。
「雅さん……」
思わず不安になって雅を見上げると、雅はそんな鈴の肩を抱いていつものように笑った。
「大丈夫だよ、鈴。すぐさま千尋が駆けつけてやっつけてくれるさ」
「姉さん! 終わったよ!」
「ありがとね、楽」
リビングに飛び込んできてやっぱり不安そうな楽の背中を撫でながら、雅はまた笑顔を浮かべた。そんな雅を見て鈴と楽は顔を見合わせて頷き合う。
こんな事ではいけない。この屋敷を任されたのは雅一人ではないのだ。
鈴は息を呑んで千尋に託された懐剣を取り出すと目を閉じた。その時だ。外が激しく光ったのは。
「っ!」
思わずその光に驚いた鈴の首筋に何か冷たい物が当たった。それは千隼が持っていた千尋の鱗だ。
「千隼?」
「うー! うーーー!」
何が言いたいのかさっぱり分からないけれど、千隼が鈴の背中でまた暴れ出す。そしてしきりに窓の外に向かって叫んでいる。
「もしかして外に行きたいの?」
何気なく千隼に問いかけると、途端に千隼は静かになった。そんな千隼を見て鈴は大きく深呼吸をして目を閉じると、ゆっくり頷く。
「――分かった。行こう」
「馬鹿言うんじゃないよ! あんた達に何かあったらどうするんだい!?」
「そうだぞ! 良いから大人しくここに居ろよ!」
雅と楽に止められたけれど、鈴の意思は固かった。千隼が何かを鈴に必死になって訴えている。それだけははっきりと鈴に伝わってきていたのだ。
「雅さん、楽さん。千隼は千尋さまの子です。最強の水龍の子なのです」
「そ、それはそうだけどあんた……」
「無茶苦茶だぞ! お前らに何が出来るんだよ!?」