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第373話

 弥七が踵を返そうとしたその時、弥七の名を誰かが呼んだ。


「弥七……か?」


 その声に弥七は振り返ろうとしていたのを止めてため息混じりに呟く。


「……ああ。ご無沙汰しています」


 低い声で返事をした弥七のこんな声は聞いた事がない。鈴と楽は互いに顔を見合わせながら首を傾げたが、喜兵衛も緊張しているようだ。


「お前、今でもまだ神の元で働いているのか? 神の善意に付け込んで居座っているだけの穀潰しが」


 その言葉に鈴はハッとした。これが噂の弥七と仲の悪い親戚だという事に。


「お前のような者がいつまでも神の元に居るのは神にとっても、最近生まれたというお子様にとっても悪影響だ。すぐさま神の元から立ち去るが良い。そして喜兵衛、お前もいつまでフラフラしているんだ。そろそろ身を固めて里に戻り、神に仕える後継者を育てろ!」

「……」

「……」


 男性の声に弥七と喜兵衛が黙り込む。ふと視線を男の後ろに向けると、そこにはあの神森家に嫁いできた時にお世話になった狐達が狼狽えた様子でこちらを伺っていた。


 それにしてもあんまりな言い草ではないか。


 鈴は拳を握りしめて震えている弥七を見て、その背中をそっと撫でた。そんな鈴に驚いたかのように弥七は鈴を見下ろして、ハッとしたように拳から力を抜く。


 そんな弥七を確認した鈴は、心の中で念仏を唱えながら一歩前に出て男を見上げる。


「あなた、どちら様?」


 その声に男はようやくここに鈴が居る事に気づいたのか、眉根を寄せて鈴を見下ろして鼻で笑った。


「なんだ、この女は。異人か? 神は偉大だ。こんな者まで雇っていらっしゃるのか」

「お、叔父さん、その方は――」


 慌てたように口を開こうとした喜兵衛を鈴は手で制して男をほとんど睨みつけて出来るだけ低い声で言う。


「弥七、喜兵衛、お前たちの親戚は随分と無礼だね。神の元に嫁いだ花嫁の顔すら知らないとは」

「!?」


 鈴の言葉にその場に居た全員が息を呑んだ。弥七達の叔父はもちろんだが、喜兵衛と弥七と楽まで鈴を凝視してくる。そんな皆を無視して鈴はさらに話し出した。


「あなたは知らないようだけれど、喜兵衛と弥七は私とあの方が認めた方だよ。その二人をこれ以上侮辱するのなら、私達も黙っては居られない。それにこの二人はこの地をもうじき去る。あの方は地上でのお役目を終え、私達全員を都に連れていくおつもりだ。あなたは新しい神の元に勤める人材を今から集めた方が良いんじゃないか? この二人はもう神森家の者だ。キツネ属の者ではないよ」

「!!」

「何も聞かされていなかった哀れな者よ。自分が周りからどんな風に思われているのか、今一度よく考える事だね。あの方の決定は絶対だ。それは地上を去った後も変わらない。行くよ、あんた達」

「は……はい! 姉さん!」


 誰ともなく鈴を姉さん呼ばわりして歩き出した鈴の後をついてくる。その足取りは軽快だ。


 通りを曲がるとあの狐たちがこちらに向かって手を振っていたので、鈴達は一目散に彼らの元に急いだ。


「こっちです! 早く!」

「おい、茶屋の2階の個室だ!」


 その声に従って鈴達は急いで茶屋に駆け込み、2階の個室に滑り込む。


「はぁ、はぁ、き、緊張しました!」


 個室に入るなり胸を抑えて言う鈴に楽がすぐさま突っ込んできた。


「それは俺等の台詞だよ! お前、何であんな時に限って突然突拍子もない行動に出るんだよ!」

「あーあ! うー!」

「でも千隼は格好良いママに喜んでます!」

「それは走ったからだ! はぁ……ヒヤヒヤした……」


 楽は千隼を隣に居た狐に預けてその場でゴロリと仰向けに転がる。そんな楽を横目に喜兵衛と弥七が鈴に頭を下げてきた。


「鈴さん、ありがとうございました」

「ありがとな、鈴。もうじき手が出そうだったんだ……それを止めてくれてありがとう」

「私は何もしていませんよ! お礼なら雅さんに言ってください!」

「姉さん?」

「姉御? なんでだ?」

「ついついカッとなって雅さんの物真似をしてしまったんです。いつも自信満々で可愛らしくて暴れん坊の雅さんには誰も敵いませんから! その場に居なくても誰かを追い払う事が出来る雅さんにビックリです!」


 そしてそのおかげで怖い叔父狐の元から逃げ出すことが出来たと言っても過言ではない。やはり雅は偉大だ。


「……あの状況で咄嗟に姉さんの物真似しようとしたお前に一番びっくりだよ……」

「……はは! そっくりでしたよ、鈴さん。一瞬姉さんが乗り移ったのかと思いました!」

「姉御にしちゃあ、ちょっと可愛すぎたんじゃないか? おいお前ら、千隼は腹減らしてるみたいだ。さっさと何か食べ物注文してやってくれ。ついでにここらで昼食にしよう。今日は俺が奢る」

「いいのですか?」

「ああ。俺が招いた事だからな。好きなの頼めよ、お前らも」


 ようやくいつもの調子に戻った弥七に皆がホッとしたように頷くと、それぞれ食べたい物を注文して食事がやってくるのを待った。


 その間、初めて会う狐たちに千隼は大興奮だ。


 けれどそれはどうやら狐たちもだったようで――。


「感慨深いなぁ……あの時運んだお嬢さんが千尋さまの子を産むだなんて……」

「全くだ……俺はこの事を里でも自慢して周ってるんだ」

「そんな事言ったらこの二人だってそうだよ。龍神について天に行くなんて、こんな名誉な事はないんだから」

「選ばれしものだよなぁ……それにしても可愛いな、おい」

「美人の母ちゃんと綺麗な父ちゃん、それから格好良い兄ちゃんか。将来が楽しみだ!」

「目が綺麗だな。夏の空みたいだ」

「髪の色とよく合ってる。弥七、この子はもう龍に変身するの?」

「いや、まだだけど……おい、そんなベタベタ触るなよ! 疫病にでもなったらどうするんだ!」

「失礼だな。俺達は病気なんか持っていないぞ! 神の子を抱いたなんて、それこそ自慢になるぞ!」


 嬉しそうに代わる代わる千隼を抱っこしてあれこれ質問を投げかけてくる狐達に鈴と楽は笑顔で答える。


「たまに戻ってきてくれよな。皆」

 ひとしきり質問が終わると、一人の狐が寂しそうにポツリと言った。そんな狐に鈴は強く頷いて言う。


「もちろんです! きっと千尋さまはそうなるように動いてくれているはずですから!」

「そうだよな……あの方はお優しいもんな……」


 視線を伏せながら一人の狐が言うと、それを聞いて他の三人が固まっている。


「……千尋さまが優しい……?」

「そうか?」

「いやぁ……こいつには優しいけど……」

「皆さん! 千尋さまは優しいですよ!」


 何故か狐の言葉を否定する三人に鈴が眉を吊り上げると、三人は顔を見合わせて首を傾げている。


「それは鈴さんに関してだけかと……だって、鈴さんが妊娠中の自分への手紙に鈴さんの体調管理はしっかりと! もし何かあったらあなたを狐鍋にしてしまいすよって書かれてたんですけど……」

「俺のには庭中に転がってる小石とか木の根っことか、とにかく鈴が躓きそうな物は全てすぐに排除しろってあったぞ。んなもん何百年かかるんだよって思ったな……」

「……俺、こいつと連弾しただけでおやつ抜きって言われた……」

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