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第372話

 護衛を解任され、屋敷からも放り出された栄に千尋はすれ違いざまに小さな声で言った。


『五年待っていて下さい。私がこの監獄を出たら、必ずあなたに声を掛けます』


 その言葉を頼りに栄はそれから5年間実家に戻り家業を継いでいたのだが、約束の5年が経っても千尋は現れず諦めかけていた頃――。


『お待たせしました、栄。さあ、家へ帰りましょう』

『お、おう……お前……千尋、だよな?』

『ええ。他の誰に見えますか?』


 約束の5年から既に3年が経過した頃、突然現れた千尋は栄の全く知らない人になっていた。


 無事に高官になった千尋の噂は辺鄙な栄の実家にまで伝わってきていた。


 けれどその噂は栄が覚えている千尋とはまるで別人のようで、信じてなどいなかった。それなのに迎えに来た千尋を見て栄はようやく噂の人物は千尋だったのだと納得したのだ。それほどまでに千尋の顔は無機質で無感情だった。


 それから数千年。栄は千尋の屋敷の執事として仕えていた。


 千尋が監獄と称した千眼の両親はその後千尋に一切の干渉はしなかったのだが、それはしなかったのではなく、出来なかったのだという事を後々栄は知ることになる。


『お前よぉ、せめて休みの日でも布団からは出ろよ』


 休みの度に布団に潜り込んで一向に出てこない千尋に栄はよく声を掛けたが、千尋は子供の頃から寝起きだけは最悪だ。そのまま2日もずっと布団の中に居るなんて事もザラだった。


 たまに布団から出たと思ったら庭にある温室に入り浸って無表情のまま植物に囲まれて昼寝をするか本を読んでいる姿が今も栄の目に焼き付いている。


 あの事件が起こった時もそうだった。王や高官達は千尋がごねると踏んでいたのか、大掛かりな裁判の準備までしていたというのに、当の本人はいつものような冷淡な笑顔で王に進言したという。


『暗号を盗まれた事は事実です。私の罪は重い。どうか私の罰は一番重い地上への流刑にしてください』


 それを聞いた友人たちは皆怒ったし、もちろん栄も反対した。


 普通に罰を受けたら都外に流刑になり数百年で戻ってくる事が出来るというのに、どうして自らそんな罰を背負ったのかが皆には理解出来なかったのだ。


 そこまで考えて栄は手の平の上にあるノートに視線を落とした。


「これが千尋……あの千尋なのか」


 写真には自慢の長い髪を千隼に齧られて笑っている千尋と、それを慌てて止めようとしている人間の少女が写っている。


「こっちも、こっちも……全部笑ってんだよな……見たこと無い顔でよぉ」


 少しだけ寂しい気持ちを抑え込んで栄は涙を拭った。


 あのままずっと千尋の側に居てやる事が出来たら千尋はこんな顔をしていられたのだろうか? それとも栄が側に居てもそれは叶わなかったのだろうか?  


 どうなって居たかなんてもう分からないが、栄はここへ戻ってきた時からもう一生千尋の側を離れないと誓った。


「守るからな、今度こそ。千尋も子どもも嫁さんも、必ず守るから」


 栄はノートを閉じてそれをきちんと揃え千尋の部屋に持ち込んだ。千尋の机の上には綺麗な缶が置いてあり、何気なくそれを開けてみると中から押し花やらヘアピン、随分と可愛い栞などが入っている。明らかに千尋の私物ではない。


「あいつ、こんなもんまで……」


 グチャグチャになった紙を一度伸ばしただろうと思われる英語とやらで書かれたメモを見て栄は苦笑いした。これはどう見てもゴミとして鈴が捨てた物だろうに、そんな物まで大切に置いてあるのか。


「何をしているのですか? 栄」


 背後からの突然の声に栄が驚いて振り向くと、そこには圧のある笑顔を浮かべる千尋が腕を組んでこちらを見ている。


「ああ、これを戻しに来たんだよ」

「へぇ?」


 そう言って笑顔のまま近づいてきた千尋は栄の手からメモを奪い取って缶の中に丁寧に仕舞うときっちりと蓋をする。


「お前よぉ、それはゴミ……だよな?」

「ゴミ? 鈴さんの言葉を借りるなら、これは私にとって価値のあるゴミなので」

「価値のあるゴミ? 何だそりゃ」

「そのまんまです。たとえ些細なメモでも私にとっては価値がある」

「なるほど。てことは、今のは相当何か良いことが書いてあったのか?」


 英語で書かれていて全く読めなかったが、栄の問いかけに千尋はふと笑顔を消し、そっと栄から視線を逸らす。


「なんだよ?」

「……ねぎ」

「は?」

「英語で玉ねぎと書かれていました。多分、鈴さんの買い物備忘録だと思います」

「……お前……正気か?」


 何故そんな物まで取ってあるんだ……思わず問いかけそうになったが、千尋はうっすらと耳を赤くしてそっぽを向いているので、それ以上問い詰める事は止めておいた。そんな栄に何を思ったのか、千尋は突然捲し立てるように話し出す。


「言っておきますが、別に全てのメモを置いてある訳ではありませんから。先程のは鈴さんが初めてうちにやってきて英語で書いた買い物備忘録なのです。それが居間の屑籠に入っていたので何て書いてあるのか興味があって拾い上げただけで、別に意図して置いていた訳ではなくて――」


 急に必死になって言い訳をしだした千尋を見て栄は思わず引きつる。


「分かった分かった! あれは価値のあるゴミだ。お前が英語に興味を持った大切な物なんだな?」

「その通りです」


 栄の言葉に千尋は何故か満足げに頷くが、栄からすればどれほど鈴が好きなんだという感情しか出てこないし、千尋にこんな顔をさせる事が出来たのはやはり鈴しか居ないのだろう。


「楽しみだな。嫁さんと千隼がここに来るの」

「ええ。都を気に入ってもらえると良いのですが」

「その為にお前は今頑張っているんだろう?」

「もちろんです。私も鈴さんも家族との思い出が少なすぎるので心配でしたが、千隼が生まれて思い知りました。そんな記憶など無くても互いに思い合っていれば、いとも簡単に家族になる事が出来るのだと。それは雅や楽、弥七に喜兵衛、あなたも含めてそう思いますよ」


 缶を指でなぞりながらそんな事を言う千尋に、今度は栄がそっぽを向く番だった。きっと栄の耳も真っ赤になっているに違いない。



♥ 

 千尋が都に戻ってそろそろ半年が経とうとしていた頃、鈴は買い物籠を持って久しぶりに地元の町に降りてきていた。


 隣では楽が千隼を抱っこして後ろから喜兵衛と弥七が辺りを見渡しながらついてくる。


「やっと千隼君はお外に出られましたね」


 そう言って喜兵衛が嬉しそうに千隼の頭を撫でると、千隼も満面の笑みでそれに答えている。そんな光景を見ながら鈴は目を細めた。


「ようやく角が出し入れ出来るようになりましたもんね。楽さん、龍に変身出来るようになるのはまだかかりますか?」


 早く小さい龍を抱いてみたくてウズウズしている鈴を見て楽は苦笑いを浮かべている。


「もうちょっとなんだけどな。後は千隼のやる気の問題だよ」


 千隼を抱き直しながら楽が言うと、突然弥七がピタリと足を止めた。


「どうかされたのですか? 弥七さん」

「悪い、俺先に戻るわ」


 表情を強張らせた弥七の隣で喜兵衛も正面を向いて眉根を寄せて固まっている。

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