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第371話

 『その前夜』は劇団・芸術座の有名な演目だ。その中でもゴンドラの唄は「いのち短し 恋せよ乙女」から始まる、あまりにも有名な唄である。


「……その通りです。仕方ないですね……今日だけですよ。あと、居間に移動しましょう」


 既に円盤を配置して針を下ろそうとしていた羽鳥を見て、千尋は呆れたようにため息をついて地上から持ち帰った物を居間に持って移動した。


 鈴の吹き込んでくれた歌を聞きながら千尋がノートをめくっていると、隣から息吹と栄が覗き込んでくる。


「これが嫁か! ほぉ、やはり天女なのか?」

「可愛いだろ~? 西洋人形みたいなんだ、鈴は! 背丈はこんぐらいでな!」

「小さいな! で、このちっこいのが息子か!」


 栄は千尋の手からノートを奪い取り、しげしげと写真を見つめて涙ぐむ。


「こりゃまた小さい頃のお前にそっくりじゃないか! ああ、でもこの子の方が幾分可愛らしい顔立ちだな! これは嫁の血か!」

「私も見たい! 千尋、名前はもう決まってるのか?」

「ええ。千隼と言います。男の子ですよ」

「で、で、種族は!?」

「水龍です」


 その一言に皆が一瞬黙り込み、ゴクリと息を呑んだ。そして真顔で言う。


「絶対にあっちに悟られないようにしないとね」

「ああ。もし見つかったら何されるか分からない」

「そうでしょう? だから皆さんも気をつけてくださいね」


 神妙な千尋の言葉に皆は黙って頷き、またノートに視線を移して口々に話し始める。


「おお、楽じゃないか! あいつも大きくなったなぁ! こっちに戻ってきたらちゃんとした嫁さん探さないとな」


 まるで楽の父親のような事を言う栄に千尋は少しだけ苦笑いを浮かべて言う。


「それには及びませんよ、栄。楽にはもう良い人が居るのです」

「え!? だ、誰だ? まさか初とか言わねぇよな!?」


 栄の知る楽の周りに居た女性の龍と言えば初なのだろう。


 それを聞いて千尋はきっぱりと首を振って言った。


「いいえ。菫さんと言って、鈴さんの従姉妹なのですよ。とても賢くてしっかりした方で、楽ととてもよくお似合いなのです」

「嫁さんの従姉妹!? って事は、楽の相手も人間……なのか?」

「ええ。私は出来る限りの事をしてやるつもりです。いけませんか?」

「い、いけなくは無いけどよぉ」


 言い淀んだ栄を差し置いて、何かを考え込んでいた流星が口を開いた。


「菫さんって言うと、あのお披露目会の時に会ったあの吊り目の可愛い子かな?」

「そうです。よく覚えていますね」

「そりゃ覚えてるよ! 君にあんなにも堂々と接していたんだ。印象に残るさ。そっか、あの子が楽の想い人なんだね」

「おや、反対しないのですか?」


 意地悪に微笑んで言うと、流星は睨むようにこちらを見て言う。


「もう言わないよ! それに鈴さんには何度も都を助けてもらってる。俺は人間への意識を変えたよ。命が短い分、彼らは俺達よりもずっと毎日を大事に思って暮らしてるんだって」

「もちろんそんな人ばかりではありませんが、少なくとも鈴さんや菫さんはそうですね。自分の夢を叶えるため、置かれた境遇に負けずに今も真っ直ぐ前を見据えて生きていますよ」

「うん、そうなんだろうね。それは龍には無い感覚だからさ、千尋くんが言ってた事がやっとちょっとだけ理解出来たんだよ。それに相変わらず彼らが作る物は凄いよ」


 言いながら流星は円盤を変えて、今度は鈴の朗読を聞き始める。これは千隼の為に録音していたはずだが、どうやら千尋の荷物の中に紛れ込んでいたようだ。


 途中で何度かつっかえたり、何故か話の途中に英語で鈴の「Wow!」やら「Scary!」などと入っているのが鈴らしい。


 ひとしきり聞き終えて千尋が部屋に蓄音機を運び込み戻ってくると、友人たちはまだ楽しそうにノートを見ている。


「いやぁ、しっかしこうやって見ると楽は本当にちゃんとお兄ちゃんやってるんだね」

「ええ。よく面倒見てくれていますよ。千隼もよく懐いていますし」


 千尋はだから余計に心配なのだ。側に居ない間に万が一にも千隼が千尋を忘れてしまったらどうしようか、と。それに鈴達を置いて都に単身戻った身勝手な父親だと思われたくない。


 千尋はため息を落として皆が盛り上がる中、淡々と溜まっている仕事をこなした。何かしていないとすぐに鈴や千隼の事を考えてしまう。


「いつからこんな風になってしまったのでしょうかねぇ」


 書類に朱を入れながらポツリと言うと、向かいで羽鳥が笑った。


「僕は今の君の方が付き合いやすくていいけどね。この子達がこっちに来たら、是非ともうちのチビ達とも遊んでやってほしいな」

「もちろんです。きっと鈴さんも千隼も喜ぶと思います。あと楽も」


 幸せな未来の為に自分は今ここに居るのだと言う事を思い出して、背筋を伸ばし書類を捌き始めると、ようやく友人たちもノートを見るのを止めて作業に取り掛かりだした。


 王が降りれば、都は一気に戦場と化すだろう。その時、千尋は何としてでもこの都と鈴達がいる地上を守らなければならない。


 どこまで出来るのかは分からないが、全力で挑まなければきっと鈴に心配をかけてしまうだろう。


 千尋は大きなため息を落として目を閉じ、今も地上で過ごしている家族を想った。



♣ 

 栄は千尋達が仕事に戻った後もずっとノートを眺めていた。時折目に涙が浮かぶのは嬉しいからだ。


「はは、良い顔してんなぁ」


 写真には千尋と千隼、そして鈴が並んで写っている。三人の顔はもうすっかり家族で夫婦で親子の顔だ。


 まさかこんな日がやってくるだなんて誰が予想出来ていただろう? 少なくとも栄はこんな日が来るだなんて思ってもいなかった。


 千尋は幼い頃から年齢よりもずっと大人びた少年だった。良くも悪くも大人しくて従順で、その目には小さい頃から何の喜びも浮かんでおらず、穏やかな笑顔の下にはいつも深くて暗い闇を称えていたのだ。


 栄が千尋と出会ったのは10歳の時だ。その時千尋はまだ5歳だった。どんな説得をされたのか、両親に連れられて何の感情も浮かべないまま城下町にやってきた千尋を、まるで競りにかけるように高官達が叫んでいたのを今もよく覚えている。


 やがて養子先が決まった千尋は両親の方を向いて一度だけ頭を下げ、一言も口を開かずに壇上から下りて引取先の家族の元へ向かった。そこは栄が仕えていた家だった。


 壇上から千尋が姿を消す寸前、千尋は一度だけ両親に視線を移したが、両親が多額の金子の入った袋を受け取っているのを見て表情を歪ませたのを栄は見逃なさなかった。その表情が悲しみだったのか軽蔑だったのか、それは今も分からない。


 それから栄は千尋を警護するよう言いつけられ、ほとんどの時間を千尋と過ごした。


 最初は当たり障りの無い会話しかしてくれなかった千尋だが、次第に栄の前では笑うようになり、子どもの無邪気さを取り戻したかのように少しずつ二人は打ち解けていった。


 ところがそれが仇となり、栄は千眼の両親の裏工作によって顔を傷つけられ、千尋の護衛を解かれた。栄が20歳で千尋が15歳の時だ。

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