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第370話

「安心してください。口づけて二言三言話しただけで出てしまっただけですから」

「……それもどうなの」


 そんな事で出るのか、と流星の顔にはありありと書かれているが、出てしまうのだから仕方ない。


 地上から持ち帰った荷物の半分を流星に渡すと、流星はそれを無言で持ってくれる。


「凄い荷物だね。何が入ってんの」

「色々ですよ」


 淡々という千尋に流星は小さく首を傾げる。きっと子どもが生まれたにしては千尋の態度がいつも通りだと思っているのだろう。案の定――。


「えっと……その、生まれたんだよね?」

「ええ。元気な男の子ですよ」

「それでその態度なの? 嬉しいとか無い訳?」

「嬉しいですとも。なにせ泣いてしまったぐらいですから。ですが、私にとってここは戦場です。そんな気持ちはしばし封印します」


 本当は嬉しくて仕方ないし、少しぐらいはしゃいで都の友人たちに自慢をしても良いのではないかとは思うのだが、ここは戦場だ。そんな浮ついた気持ちで居ると、いつ誰に足元を掬われるか分からない。


 表情を引き締めた千尋を見て流星は頷き、黙ったままついてくる。


 屋敷に戻るとほんの一週間前よりも幾分やつれた羽鳥が疲れ果てた顔をして書類を睨みつけていた。


「ただいま戻りました」


 千尋が声をかけると羽鳥はハッとして顔を上げ、千尋の顔を見て頷く。


「おかえり。早速だけどこれを見て欲しいんだ」


 そう言って手渡されたのは数枚の書類だ。


「これは?」

「あちら側だと思われる人たちの一覧だよ。この一週間で都を出た人たちと言った方がいいかな。その数は千人にも及ぶ」

「思っていたよりも多いですね」

「全くだよ。まぁ家族とかも含めた数なんだけど、この数を見てこちら側からどんどんあちらに流れてる」

「こちらの分が悪いと踏んだのですか?」

「そうなんだろうね。頭が痛いよ、ほんと」

「なるほど。ではそのまま一網打尽にしてしまいましょう。何人があちらに出ようとも、私達のやる事は変わりません。これだけ考える期間があったにも関わらずあちら側に回るのであれば、それも良いでしょう」


 淡々という千尋に羽鳥も流星も、息吹でさえも黙り込む。


「千尋……何だか昔のお前みたいだぞ」


 ぽつりと息吹が言うので千尋は頷いて言った。


「そうですね。都に戻ると一瞬で昔を思い出しますよ。荷物を置いてきます」


 そう言って千尋は自室に戻ると荷物を下ろして丁寧に一つずつ解いていく。出掛けに手渡された数冊のノートのうちの一冊を何気なくめくると、そこには一週間の間に撮った写真が所狭しと貼り付けられていた。そして全ての写真に短い文がつけられている。


「こんなものまで……これはきっと弥七ですね」


 写真には大きなあの大木や庭の風景、ハーブなどが写っている。さらにページをめくると今度は料理の写真だ。


「こっちは喜兵衛」


 色とりどりの料理はどれも本当に美味しそうだ。中には鈴が作ったお菓子や洋食、そして千隼の離乳食まで写してある。


 それからも皆が思い思いに撮ったであろう写真がそのノートには写されていた。雅はネズミやら小鳥の写真を、楽は鈴が家事をしている写真を、そして鈴は――。


「……鈴さん……思い出の場所を写してくれたのですね」


 鈴が撮った写真は千尋との思い出の場所ばかりを集めた写真だった。


 東屋、部屋、庭、裏山、あの大木から二人で見た景色……そこまで見て千尋はギョッとして写真を二度見する。


「の、登ったのですか!? 全く、あの人は!」


 千尋の背中に跨って写真を撮った時もそうだったが、鈴は本当に実はやんちゃなようだ。夕暮れ時を切り取った街は、何だか胸を締め付ける。


 千尋はその写真を撫でながら泣きそうな顔で笑った。


「もう本当に……鈴さんは……」


 声を詰まらせて目頭を抑えた千尋は違うノートを手に取ろうとして止めた。これ以上ノートを見ていたらきっと仕事など出来ない。これは夜の楽しみに置いておこう。そんな事を考えながら他の荷物の仕分けを始めた。


 そこへ栄がやってくる。


「よぉ、何か手伝うか?」

「ああ栄ですか。ちょうど良かった。これを私の寝室に運んでくれますか?」


 千尋はそう言って栄に幸之助が贈ってくれた蓄音機を手渡すと、栄が首を傾げる。


「なんだ、これ。ラッパ……か?」

「いいえ。蓄音機というのですよ。まずこのゼンマイを巻いて円盤をここに置き、この針を円盤の溝に乗せると――」


 流れてきたのは鈴の伸びやかで美しいアメイジング・グレイスだ。その声を聞くだけで胸が詰まり、声を失う。そのあまりにも美しい鈴の歌声に栄もしばし呆然としている。


「……凄いな……お前の嫁は天女か何かなのか?」

「そうですね。いつか羽衣を纏って私の前から消えてしまうのではないかと不安に思った事もありましたが――」


 千尋がそこまで言ったその時、歌が終わって千尋さえ知らなかった鈴からの短い伝言が入っていた。


『I love you, Chihiro-sama. Always, always only you』

「っ……いつの間に……」


 千尋は片手で顔を覆って深い息をつく。そんな千尋を見て栄が驚いたように声をかけてきた。


「お、おい、大丈夫か? 婚姻色が濃くなってるが……」

「え? ああ、問題ありません。とうとう私は鈴さんの声を聞いただけで婚姻色が出るようになってしまっただけですから」

「それは全然大丈夫ではないだろうが。で、何て言ってたんだ? 今のは」


 千尋が鈴の言葉を聞いて婚姻色が出た事に気づいた栄が千尋に詰め寄ってくるが、千尋は小さく首を振る。


「それは私と鈴さんの秘密です。鈴さんは私だけの天女だと実感出来ましたとだけ教えておきましょう」


 微笑んだ千尋を見て栄は首を傾げながらも嬉しそうに笑う。


「それにしても面白いもん持ってきたな! 他のも聞こうぜ!」


 栄が嬉々として円盤を変えていると、そこへ流星と羽鳥、そして息吹までやってきた。


「なんかさー、鈴の声が聞こえた気がしたんだけど」

「流石ですね。ええ。蓄音機を持ってきたのですよ」

「蓄音機? なんだ、そりゃ」


 首を捻る息吹に千尋が簡単に説明をすると、それを聞いて皆が自分の仕事も忘れて蓄音機に夢中だ。


 蓄音機が日本に入ってきたのは明治になってからだ。江戸、室町で止まっている都ではまだ誰も知らない蓄音機に夢中になるのも頷ける。


「あなた達、こんな事をしていて良いのですか?」


 呼び出されたから急いで戻ってきたというのに、あまりにも呑気な友人たちに千尋が思わず顔を顰めると、友人たちは揃って千尋を睨みつけてきた。


「そりゃね、千尋くんはいいよ! 一週間の休暇があったんだから! その間俺達がどれほどあちこち奔走してたと思うの!」

「そうだぞ、千尋! お前だけ鈴の歌聞いてズルいぞ!」

「二人の言う通りだよ。そろそろ僕たちにも癒やしがあっても良いと思うんだ。あ、これ聞きたい。ゴンドラの唄。『その前夜』のやつでしょ?」


 羽鳥は流石にこっそり地上に降りていただけあって、何故か地上の事にやけに詳しい。

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