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第368話

 英語で返事が返ってくるとは思わなかったのか、鈴は千尋にしがみついてきて鼻を鳴らす。そんな鈴を抱きしめ上を向かせると、驚いた鈴にそっと別れの口づけをした。


 離れがたいけれど、未来を鈴と生きるための別れだ。


 名残惜しく感じながらも、千尋と鈴はどちらともなく手を放した。



♥ 

 あの日の事を鈴は今もたまに思い出す。千尋は最後に鈴の耳元で寂しそうにぽつりと言った。


『あなたの側に居られないという事が、こんなにも怖いだとは思ってもいませんでした。お揃いですか?』


 そう問いかけてきた千尋に鈴は声もなく抱きつき、何度も何度も頷いた。千尋が鈴に見せた数少ない弱音だった。


 そしてそんな鈴を見て千尋は何故か婚姻色を出し、苦笑いしながら地上を去ったのだ。


 千尋が都に旅立ち、あの日から既に一月が経過しようとしている。


「なぁ鈴、あの時あいつ、あんたに何言ったんだい?」

「え? えっとー……内緒です! 夫婦の秘密というやつです!」


 鈴は笑いながら千隼のオシメを干して広げると、そんな鈴の隣で雅がおかしそうに肩を揺らす。


「それにしてもあの千尋の顔! 今思い出しても千尋のあの何とも言えない顔は初めて見たよ!」

「そ、それは適当な所で忘れてあげてください」


 うっかり婚姻色が出てしまった去り際の千尋の顔は、雅の言う通り何とも言えない顔だった。情けなさそうな、おかしそうな顔が今も瞼の裏に焼き付いている。


「あ、こら! 千隼、それは食べ物じゃないんだって!」


 屋敷の中から楽の声が聞こえてきて思わず雅と顔を見合わせて笑った。しばらく二人で笑いあった後、雅がポツリと言う。


「良かったな、鈴。千隼が生まれて。これであいつがここに居たって実感が出来る」

「雅さん……」


 次に千尋と会えるのは何年先か分からない。たった一月で屋敷から千尋の気配がすっかり消え、何だか屋敷が随分淋しくなったような気さえする。きっとそれを雅も肌で感じているのだろう。


 雅は猫に戻ると鈴の足にすり寄ってきた。これは抱いてくれの合図だ。


 鈴は雅を抱き上げるとその小さな後頭部に顔を埋めた。


「私、千隼が生まれなくてもきっと大丈夫だったと思います。だって、雅さんが居てくれるから。弥七さん、喜兵衛さん、楽さん。皆がずっと一緒に居てくれるから……」

「……はは、そうだね。そうだった。悪かったね、鈴。長年の親友がちょっと出稼ぎに行ったぐらいで不安になっちまった。あいつはどうせすぐに片付けて戻って来る。これをあんたに言うのがあたしの役目だった」


 雅は鈴の頬に頬ずりをして鈴から飛び降りた。それと同時にまた屋敷から楽の叫び声が聞こえてくる。


「うわー! またおしっこかけられたー!!」

「……」

「……」


 そんな叫び声を聞いて鈴と雅は思わず顔を見合わせて笑った。何故か楽がオシメを変えると、千隼は粗相をしてしまうのだ。


「仕方ない奴だね、全く」

「でも楽さんがずっと相手をしてくれているので、本当に助かってます」


 千隼が生まれる前はどこか不安そうな楽だったが、千隼がいざ生まれると楽はずっと千隼の面倒を見てくれている。千尋が居なくなった今、千隼に離乳食を与えるのも今は楽の役目だ。


「本当に良いお兄ちゃんです!」


 鈴は千尋が地上を去ってから毎日日記を書いている。今までの心情を綴った日記ではなく、主に千隼に起こった事を書き記す日記だ。


 別に千尋と約束をした訳ではないけれど、離れている間の事を千尋にも知ってもらいたい。毎日が特別で鈴はいつも幸せだと少しでも千尋に伝えたかったのだ。


 鈴はポケットからメモを取り出してまたチビた鉛筆で今起こった事を書きつけた。そんな鈴を見て雅が目を丸くする。


「あんたはまた! そんなちっさい鉛筆使って!」

「こ、これは外用なだけです! 部屋にはちゃんと長いのがありますよ!」

「本当に?」

「ほ、本当です!」


 疑わしい、とでも言いたげな雅に鈴は肩を竦めて洗濯物を持ち、屋敷に戻ると、ようやく落ち着いたのか楽が千隼を抱いて今度はピアノの練習をしている。


「楽さん、千隼を見ていてくれてありがとうございます」

「ん? おお、用事終わったのか?」

「はい!」


 鈴が笑顔で頷くと、楽は深く頷いて真面目な声で言う。


「じゃ、今日は昨日のとこからな」

「は、はい……」


 楽は、というよりも龍は人間よりもずっと物を覚えるのが早いようで、ピアノの腕前は今はもう楽の方がはるかに上手い。


「じゃ、かけるぞ」


 そう言って楽は部屋の端に置いてある蓄音機にレコードをセットして、そっと針を置いた。すると、蓄音機から千尋が奏でるピアノが流れてくる。


 この方法を思いついたのは節子だ。蓄音機自体は神森家にも既にあったが、しばらくの間離れ離れにならなければならない鈴と千尋を不憫に思ったのか、すぐさま節子は神森家に大きな吹き込み機を持ち込んでこんな事を言った。


『お兄様、これをしばらくの間お貸しするのでどうか役立ててください』


 最初は千尋も困っていたが、雅がそれを見て「だったらあんたの歌も吹き込んでやったらどうだい? そうしたら都でも聞けるだろ?」と言い出し、それから毎日暇を見つけては千尋と一緒にレコードに演奏や音楽、朗読を何枚も吹き込んだ。


 最近の鈴のお気に入りは寝る前に千隼が聞かせろとせがむ、千尋の朗読だ。蓄音機から流れてくる千尋の声を聞いていると、寂しさは少しだけ和らぐ。


 蓄音機から千尋の演奏が流れてくると、千隼は千尋の鱗を握りしめてウトウトし始めた。


 それを聞きながら鈴も一生懸命ピアノを練習するが、一音でも間違えると相変わらず千隼は荒ぶる。


「千隼は千尋さまよりも厳しいかもしれません……」

「ほんとにな……俺も昨日、おんぶしながら練習してたけど、間違える度に髪引っ張るんだ……」

「もしかしたら千尋さまも小さい頃はこんなだったのでしょうか?」

「さあ……お前じゃない?」

「えっ!?」


 楽に言われて鈴は愕然とした。


 両親は鈴に赤ちゃんの頃の話をたまにしてくれたけれど、言われてみれば鈴はよく「あなたは小さい頃からやんちゃだった」と言われていたのを思い出す。


 鈴は青ざめて楽を見ると、楽は意地悪に笑う。


「身に覚えでもあんのか?」

「あ、あるかもしれません……ど、どうしましょう、楽さん! 千隼が私のように落ち着きの無い子になってしまうかもしれません!」


 出来れば千尋に似て欲しかったと心の底から願っていたが、千隼の自我の強さはもしかしたら鈴に似たのかもしれない。


「いや、お前も十分落ち着いてると思うけど」

「そんな事はありません。色々あって今の私ですが、小さい頃はそれはもうやんちゃで……しょっちゅう服を破いては母に叱られていました!」

「あー……じゃあお前だな、きっと。千尋さまは小さい時からそんな事しなかっただろうし」

「ですよね。きっとそうです!」


 誰も見たことが無い千尋の子供時代を想像して楽と笑うと、ピアノの練習を再開した。

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