目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第367話

 千尋の胸に顔を埋めたまま、鈴は言った。その華奢な肩は微かに震えているが、泣き顔を見られたくないのか鈴は顔を上げようとはしない。


 そんな鈴を千尋は抱きしめて、髪に、頬に口づけをして鈴を覗き込んだ。


「私にとってもあなたは女神なのですよ、鈴さん。そしてたった一人の私が愛する唯一の人です。あなたを失うと私は生きる意味を失ってしまう。だからどうかあなたも健康で、そして幸せで居てください。泣いても寂しがっても構いません。ですがあなたにはこれから先ずっと、龍神の加護があるという事を、決して忘れないで。そして私が迎えに来たその日には、どうか笑顔で私の名を呼び出迎えてください。さあ、顔を見せて、鈴さん」


 鈴の耳元で言うと、鈴はようやく顔を上げて泣きながら笑みを浮かべた。そんな鈴を千隼が心配そうに見つめている。


「お元気で、千尋さま」

「ええ。あなたもお元気で、鈴さん。愛しています」

「はい……私も、愛しています」


 どちらともなく目を閉じて、ゆっくりと地上で最後の口づけをした。ほんの一瞬だったはずのその時間は、千尋の中に強く強く刻み込まれる。


 悠久の時の中で出会った、たった一人の運命の番は種族の違う少女だった。千尋にとって唯一無二の、この世で最も愛しくて美しい存在だ。


 二回目の雷光が辺りを照らし、鈴と千隼の顔がはっきりと見て取れた。二人は共に千尋に何か言いたげな、それで居て何かを我慢するような顔をしている。


 三人は空を見上げてとうとう光りが降りてくるのを静かに眺めていた。


 庭に戻るとそこには屋敷の住人が全員一列に並び、千尋に頭を下げている。


「なんですか、畏まって」

「千尋さま、俺、頑張ってこの国を守るから。千尋さまが迎えに来るまで、頑張るから!」

「ええ、お願いしますね、楽。ですが、私のようにやろうとしなくても良いのですよ。あなたはあなたらしくこの国を守ってください」


 楽に近寄り俯いた楽の頭を撫でると、楽は我慢出来なくなったように千尋にしがみついてきて声も無く泣き出す。こんな事で皆の前で泣いてしまうだなんて、まだまだ子どもだ。千尋はそんな楽を強く抱きしめてやった。


 そんな千尋に今度は弥七が声をかけてくる。


「千尋さま、俺からもお礼を言わせてください。ここで長年働けた事、俺にとっては一生分の運を使い切ったような気分です。都に行っても、俺はこんなだから迷惑かけると思います。でも、これからもよろしくお願いします。そしてありがとうございました」

「こちらこそですよ、弥七。あなたと鈴さんが作ってくれるハーブティーにはいつもあなたの植物への愛情を感じます。しばらくあれが飲めないのかと思うと寂しいですが、あなたが都にやって来る時には、もっと広大な畑を用意しておきましょう。そこで思う存分あなたの力を発揮してくださいね」


 そう言って笑いながら手を差し出すと、弥七は目頭に涙を浮かべて頷き千尋の手を取る。弥七がこんな顔をしてくれるようになるだなんて、思ってもいなかった。


 弥七と握手を終えると、今度は喜兵衛が話し出す。


「自分はあなたを心から尊敬しています。これからあなたの居ない屋敷を思うと胸が痛みますが、あなたが大切にしている人たちの健康を、笑顔を守るために自分はもっと精進します。千尋さま、次にあなたにお会いする時には、今よりももっと素晴らしい料理を提供出来ると思うので、どうか、どうかお元気で居てください。長い間のお勤め、ありがとうございました」

「私がどんなに辛い時でも、あなたの料理は私を驚かせ、喜ばせてくれました。長い間私はそんなあなたに随分と失礼な態度を取りましたね。あなたが今のように誰かを思って作る事の楽しさを思い出してくれた事を、私も嬉しく思っています。そして次にまたあなたの料理を堪能する日が今から待ち遠しいです。喜兵衛、あなたが努力家な事は私も身にしみて分かっています。ですが、あの時のように無理はしないように。約束ですよ」


 千尋はそう言って喜兵衛に手を差し出すと、喜兵衛は驚いたような顔をしておずおずと千尋の手を掴んだ。そしてとうとう涙を一粒零す。


「最後はあたしだね。あたしは今まで相当生意気な事も沢山言ったけど、あんたには本当に感謝してる。ただの猫だったあたしが、あんたのおかげでこの世界の色んな物を見ることが出来た。ありがとね、千尋。それから気を付けてな。地上の事はあたし達に任せときな」

「雅……あなたは私の唯一と言っても良いほど心を許せる友人であり、妹のような存在です。私の最後のお願いを聞いてくれますか?」

「なんだい?」

「少しの間で良いので猫に戻ってください」

「はあ? まぁ、いいけど」


 そう言って猫の姿に戻った雅を、千尋は抱き上げてその背中に顔を埋めた。流石に人型の雅にはこんな事は出来ないが、どうしても最後に雅を抱きしめたかった。


 無言で雅の背中に顔を埋める千尋に、雅は何も言わない。


「ありがとう、お玉。ずっと側に居てくれて本当にありがとう。あなたのおかげで私の地上での生活は退屈な物にはなりませんでした。あの時、あなたを助けて本当に良かった……心から、そう思います」

「な、なんだよ……急に。気味が悪いからそろそろ離れな」

「嫌です。私の可愛いお玉はそんな事を言う子じゃなかったはずです」

「目玉さんの頃からあたしはこんな子だよ。さ、離れな」


 笑いながら千尋が言うと、雅は大きなため息を落としてやっぱりこんな事を言う。素直じゃない雅にもきっと伝わっているはずだ。千尋がどれほど雅に救われたかを。 


 千尋が雅を放すと、最後に鈴と千隼に向き直った。


 そして鈴の髪を撫でて涙を掬い、頬を撫でる。


「鈴さん。行ってきます」

「はい。行ってらっしゃいませ。どうかお気をつけて」


 鈴にはもう何も伝える事など無い。鈴もきっとそう思っているだろう。涙を零しつつ千尋を見上げる鈴の目が、全てを物語っていたから。


 そして千尋は最後に千隼を抱き上げ、抱きしめた。自分と鈴の血を分けた尊い存在だ。


「千隼、私が居ない間、鈴さんを、ママを頼みましたよ。そして覚えていてくださいね、私の事を」

「あー!」

「良い返事ですね。それでは皆さん、しばしのお別れです。どうかいつまでも息災で」


 そう言って千尋は全員に頭を下げた。そんな千尋を見て皆も頭を下げてくる。そして声を揃えて声をかけてくれた。


「行ってらっしゃいませ、千尋さま。無事のご帰還をお待ちしております」


 と。


「そうだ、鈴さん」


 突然名前を呼ばれた鈴がハッとして千尋を見上げてくる。そんな鈴に千尋は極上の笑顔で鈴を抱き寄せて耳元で囁いた。


「あなたが好きです。どれだけ離れていても、私の心はあなたと共にずっとあります」


 千尋の声に鈴は涙ぐんで頷き、千尋にしがみついてくる。


「I love you too. My God. Please come and get me soon」

「Of course. Because you are my goddess」

「!」

「驚きましたか?」

「はい……ありがとうございます、千尋さま」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?