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第366話

 そう言って千尋は腕を伸ばして鈴の頬を撫でた。そんな千尋の手の平に鈴は頬を寄せて目を細める。たったそれだけの仕草に千尋の心はじんわりと温かくなるから不思議だ。


「私は長い間自分の事を考えた事がありませんでした。皆が望む水龍で居ればそれでいいのだろう、と。それは地上に降りてきてからも変わりませんでした。ですが私の前にあなたが現れ、私の認識が少しずつ変わり始めた。私の立場や私を思って怒り泣いたあなたに、ようやく私は千尋という人格を認められたのです。個人で居ても良いのだと気付かされたのです。私は初めて自分の意思で何かを決め、行動しました。その結果が今に繋がっている。あなたとこうして子どもの寝顔を見て、次に生まれてくる子どもの話をしている。こんな未来が自分にあっただなんて、夢にも思いませんでした。鈴さん、私を見つけてくれてありがとうございます。そして……こんな私と共に歩く人生を選んでくれて本当に……ありがとうございます」


 千尋の最後の声は消え入ってしまいそうだった。声が少しだけ震えたのを鈴もきっと気づいているだろう。嬉しくて泣く。これで二度目だ。千隼が生まれた時と今、千尋はこの一週間という短い時間に、何千年にも匹敵するような価値を得たのだ。


 千尋の言葉に鈴は黙って微笑み、小さな声で囁いた。


「私とお揃いですね。千尋さま」


 たったそれだけの言葉が、千尋の心に染み渡り全ての細胞を満足させる。


「ええ、お揃いです」


 この言葉を使うのは鈴だけだ。千尋とお揃いだと言ってくれるのは、対等の立場だと言ってくれるのは鈴しか居ない。きっと、この先もずっと。


 やがて朝になり、最後に皆で庭で写真を撮った。千尋がこの写真を見ることが出来るのは、恐らく数年後だ。


「千尋さま、これ。この一週間撮ったやつです。叔父さんからも預かりました」

「ありがとうございます、楽。勇さんにもお礼を伝えておいてください」


 二人は千尋の言う通りこの一週間ずっと写真を撮り続け、一枚でも多く千尋に渡す事が出来るように、とほぼずっと暗室に籠もってくれていた。


 千尋は楽から3冊のノートを受け取り、鈴とお揃いの腕時計を見るとそろそろ夕方だ。


「あっちが指定してきたのは18時頃だったか」

「ええ。あと二時間程ですね」


 そう言って千尋は鈴の腰に腕を回すと、鈴を引き寄せる。


「千尋さま?」

「あと二時間、くっついていても構いませんか?」


 冗談めかして千尋が言うと、鈴は一瞬間を置いて笑顔で頷いた。そんな二人を見て雅は呆れたように無言でその場を立ち去る。そんな雅に続いて皆が屋敷に戻っていき、庭には千尋と鈴と千隼だけが取り残された。


「鈴さん、東屋へ行きましょうか」

「はい」


 千尋は鈴から千隼を受け取り空いた手で鈴の手を掴むと、鈴もしっかりと握り返してくれる。


「ここで全てが始まりましたね、そう言えば」

「?」

「あなたがパウンドケーキを初めて焼いてくれた日の事ですよ。あの時に私はこの屋敷の事を全てあなたに話し、あなたが受け入れてくれるかどうかを尋ねたのです」

「そうでしたね! 私はここを追い出されたら行く所も無いと卑怯な手を使おうとしてました」


 苦笑いを浮かべてそんな事を言う鈴を見て千尋は笑った。


「卑怯だなんて! あの時私はそれを聞いてこう思ったのですよ。ああ、これであなたを手放さなくて済むのだな、と」

「そうなのですか?」

「ええ。自覚はありませんでしたが、私はあの時には既にあなたに惹かれ始めていて、あなたを素性や体調の事でここから追い出したくなかったのです。だから龍神の花嫁という立場で無くてもあなたをここに留めておけるのならば、と思ったのをよく覚えていますよ」


 我ながら何て浅ましい事を考えたのかと呆れるが、それでも今はあの決断をした事を後悔してはいない。


 実際、あの時もしも鈴が龍神の花嫁になる事が出来なかったとしても、きっと千尋は鈴をここで雇い、次第に惹かれていった事だろう。


「私はここで初めて千尋さまに抱き上げられた事をとてもよく覚えていますよ」

「そうなのですか?」

「はい! 私が見る景色と千尋さまの見ている景色はこんなにも違うのかと驚いたのです。身長差しか無いはずなのに、不思議とあなたの見ている景色はとてもとても広いのだと実感しました。不思議ですね」

「そんな風に感じたのですか?」

「そうなんです。私が普段見ている物は花や草、それに壁とか石。そんな物ばかりだったのですが、千尋さまに抱き上げられた時、一番に目に飛び込んできたのは限りなく広くて青い空でした。その時に気づいたんです。私はもう長い間ずっと空を見上げていなかったんだなって」

「そうでしたか。久しぶりに見た空はどうでしたか?」

「圧倒されました。世界はこんなにも広いのに、私は私の身に起こった事しか考えていなかったなって。だから余計に龍神さまの花嫁になろうと決意したのです。千尋さまの側に居たら、いつかもしかしたら私もこんな風にずっと青空を眺める事が出来るかもしれないって」


 そう言ってはにかんだように笑う鈴を、千尋は思わず抱き寄せた。切なくて苦しい。どうして守るために離れなければいけないのだ。そんな考えが頭を過るが、生まれたばかりの千隼を見て我に返る。


「私はあなた達を守りたい。今まで色んな事がありましたが、今ほど強くそう思った事はありません。鈴さん、私達は未来の為に離れるのです。どうかそれを絶対に、忘れないでくださいね」


 鈴の頭を胸に抱きかかえたまま千尋が言うと、鈴は鼻を鳴らしてコクリと頷いた。


「千尋さまも、忘れないでください。あなたには私と千隼という家族が居る事を。あなたはもう一人じゃない。孤独な水龍なんかじゃない。あなたが何をしても、私達がずっと側に居ます。それだけは絶対に……覚えていてください」

「ええ……忘れません。絶対に」


 何があっても千尋を信じていてくれるという存在がこの世に居るということを千尋は鈴を通して知った。それは不思議と千尋の計り知れない自信と力になる。


 それから三人は迎えの雷が鳴るまで、ずっと東屋で話していた。


 やがて音のない雷光が辺りを照らした頃、鈴の方から千尋に抱きついてくる。


「千尋さま、長い間お勤めお疲れ様でした。私達はあなたのおかげで今日という日を無事に迎える事が出来たのです。あなたにとっては些細な事だったかもしれませんが、あなたはこの国をずっと守ってくれていた。この事にどれほど感謝してもしきれません。長い間、本当にありがとうございました。それから……今のは地上を代表しての挨拶ですが、私は、私にとって千尋さまは今も偉大な神様で、尊敬する夫で、たった一人の愛する人です。どうかご無事で居てください。夜ふかしをしないでちゃんと寝て食べて、笑い、どうか健やかで居てください。そしていつか、いつか笑顔で迎えに来てください……」

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