そう言って雅は猫に姿を変えて廊下を走って行く。
「鈴ちゃん、私の言った通りだったでしょう?」
「……はい。身を持って体験しました……」
「これからもっと地獄が待っているわ。子どもは本当に、本当に何をしでかすか分からない。私も夜中に何度も菫の吐瀉物を顔面に浴びてね……」
何を思い出したのか、マチの表情がふと引きつったけれど、その顔に負の感情は一切なくて、あるのはただ愛情だけだ。
「き、肝に銘じます」
「ええ。それからが子育ての本番よ。幸いここには皆さんもいるから辛いと思ったら、我慢しないでちゃんと皆を頼るのよ」
「はい!」
鈴は千尋が抱いている千隼の手を軽く握りながら頷いた。
これからどんな毎日が訪れるのだろう。期待と不安が胸を過る。そして何よりも千尋と一切の連絡が絶たれるというのが一番不安だ。
千隼が生まれた翌日、千尋が言っていた通り色んな人達が挨拶にやってきたけれど、その殆どは千隼に会いに来たというよりも、千尋への感謝を告げに来た人たちばかりだった。
節子達は子どものように泣きながら千尋と雅に何度も何度も頭を下げ、今までの事を感謝し、そして別れを惜しんだ。
そんな光景を離れた場所から千隼を抱いて見ていた鈴は、目頭に浮かぶ涙を拭って千隼に話しかける。
「千隼、あなたのパパはとても偉大な人なんだよ。本当に本当に凄い人。あなたにパパのような生き方をして欲しいとは思わない。でも、その事をいつまでも忘れないでね。しばらくパパは私達を置いて都に戻ってしまうけど、いつか必ずまた一緒に暮らせるから。パパの事は私が毎日ちゃんと教えてあげるからね」
千隼に頬ずりしながらそんな事を言う鈴の顔を千隼は不思議そうな顔をして見つめていた。
それから千尋が戻るまでの間、鈴は出来る限り千尋と千隼と過ごした。あんなに恥ずかしかったお風呂も仲良く三人で一緒に入ってみたりしてみた。
千尋は案外子煩悩なようで、率先して千隼の面倒を見てくれる。
「ほら千隼、あなたの大好きなカボチャですよ」
「あー!」
千隼を膝に乗せて千尋は食べ物を紹介しながら千隼の口に運んでやっている。その度に千隼は千尋の髪を引っ張りながら嬉しそうに食べていた。
「ち、千尋さま、髪が……」
「構いませんよ。こら、それは食べ物ではありません」
そんな光景にオロオロする鈴とは裏腹に千尋は特に気にした様子もなく千隼の口から髪を取り出している。
「いっそ切りましょうか……」
あまりにも千尋の髪を千隼が食べようとするので、困ったように千尋が言うが、これだけ美しい髪を切ってしまうのはもったいない。
「あ! 縛りましょうか?」
鈴は自分の髪を結っていたリボンを解いて千尋の後ろに回り込むと、千尋が目を細めて頷いた。
「ありがとうございます」
「いえ! ですがいつも千尋さまがしているみたいには出来ないかもです……」
「一つに縛ってくれて構いませんよ。とりあえず千隼の手が届かないようにしましょう」
「はい! 痛かったら言ってくださいね」
そう言って鈴は手櫛で千尋の髪を梳かしながら一つにまとめて縛った。その途端、千隼が泣き出しそうに顔を歪める。
「あ、泣きそう……」
そんなに千尋の髪がお気に入りなのか、千尋の髪を取り上げた途端にグズり始めた千隼を見て千尋はさらに困惑した表情で言う。
「……切って置いていきましょうか?」
「髪をですか? それは何だか……遺品みたいになりませんか?」
「そうですね。止めておきましょう。ああ、そうだ。鈴さん、あの引き出しから私の鱗を取ってもらえますか?」
「はい!」
千尋が指さした先には造り付けられた棚がある。その引き出しを指さした千尋に、鈴はすぐさま返事をして引き出しから千尋の綺麗な鱗を取り出すと、それを千隼に持たせてやる。
その途端、千隼はそれをグリグリ触って舐めて機嫌が直った。
「ご機嫌ですね」
「はい! やっぱりパパの何かを触っていたかったのでしょうか?」
「かもしれませんね。もしかしたらこれから私がしばしの間ここを離れる事を察知しているのかもしれません……寂しいですね。連れて帰りたいですよ、あなた達を一緒に」
千尋は鱗に夢中になっている千隼を軽く抱きしめてポツリと言った。何だかその背中がとてつもなく寂しそうで、鈴は思わず千尋の背中に抱きついてしまう。
「私もです。本当は泣き出しそうなほど寂しいです。でも……ちゃんと待ってます。千隼と、皆と一緒に。だからどうか一日でも早く迎えに来てください」
「ええ。約束します。少しの間待っていてくださいね、二人共」
静かな千尋の言葉に鈴はいつまでも千尋の背中から離れなかった。千尋も離れろとは言わない。そんな鈴達を見て千隼も真剣な顔をして千尋の鱗を握りしめていた……。
♠
千隼が生まれて一週間。とうとう都から帰還命令が下った。最初は3日程度しか地上に居る事は出来ないだろうと思っていたので、よく耐えてくれたと心の底から友人達に感謝をする。
「鈴さん」
「はい」
「千隼をお願いします。それから皆の事も」
「っ……はい」
泣き出す一歩手前の顔をして鈴が頷く。家族三人で眠る地上での最後の夜。気を使って雅と楽が千隼を預かろうとしてくれたが、それを千尋と鈴は断った。
次にいつ二人に会えるか今のところ分からない。少しでも長く、千尋は鈴と千隼に触れていたかった。
千隼も空気を読んだのか何なのかは分からないが、今日だけは大人しく鈴の子守唄と千尋が読む本を静かに聞いている。
やがて小さな寝息が聞こえてきてふと鈴との間に居る千隼を見ると、千隼はすやすやと気持ちよさそうに眠りについていた。
「今日は随分すんなり寝てくれましたね」
本を閉じて小声で千尋が言うと、鈴は千隼の頭を撫でながら幸せそうに頷く。
「千尋さまの鱗があると安心みたいです」
「だと嬉しいですね」
あれから千隼は千尋の鱗をずっと離さない。今も両手で千尋の鱗を握りしめている。時折顔を顰める千隼をしばらく鈴と見つめていたが、ふと千尋は顔を上げた。
「二人目は女の子だと思いますか?」
「へ?」
「あなたの夢に出てきた二人の水龍は、男の子と小さな龍だったのでしょう?」
「はい」
「性別はどちらだと思いますか?」
「え!? えっと、えーっと……」
突然の千尋からの質問に鈴は目を泳がせて戸惑っている。そんな鈴を見て千尋は笑った。
「なんて、そんな事を想像しながら仕事をしていたのですよ、私は」
「そうなのですか?」
「ええ。早くその夢を叶えたい。自分の為にもあなたの為にも。そして私もその光景をこの目で見たかった。私は家族と共に暮らした記憶がありません。だから余計に想像がつかなかったのです。父親になるという事がどういう事なのか、家族と暮らすということがどういう感情をもたらすのか。だから余計に早く知りたかったのですが……」
「ですが?」
「思っていたよりもずっと忙しく、ずっと幸せでした。いえ、幸せなんて単語では表せません。まさに幸甚の至りですね」