そう言って立ち上がろうとした鈴の腕を千尋が掴んだ。それと同時に雅がくるりと振り返って怖い顔をして鈴の鼻先に指を押し付けている。
「あんたはここに居な!」
「は、はい」
「鈴さんは私と千隼の相手をしていてくださいね」
千尋の言葉に鈴は満面の笑みを浮かべて頷くと、千尋が抱く千隼を覗き込んでさらに笑顔になった。そんな鈴の顔を見て思わず千尋も微笑んでしまう。
その途端また部屋が光り、楽と勇がやっぱり同じ格好をして写真を撮っていたのだった。
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千隼は鈴が毎日ピアノを弾いていたからか、ピアノの音には酷く敏感になっていた。
「おい、また荒ぶってんぞ」
楽の膝の上で大暴れしている千隼を見て鈴は青ざめた。
「す、少しの間違いも許されません!」
鈴が涙目で隣の千尋を見上げると、そんな鈴の頭を千尋はおかしそうに撫でる。
「千隼はどうやら音楽に厳しいようですね」
千尋の言う通り、千隼は鈴がピアノを一音でも間違えると荒ぶる。名前の通り、なかなか自己主張の激しい子だ。
「十分に上手だと思うのですけどね。では仕方ありません。千隼にママの素晴らしい歌を聞かせてやりましょう。鈴さんの歌は今までも聞いていたでしょうが、私の演奏で歌を聞くのは初めてでしょう?」
そう言って千尋はポロンとピアノを奏でた。それを聞いて鈴は嬉しくなって立ち上がると、目を閉じて大きく息を吸う。
一人で歌っていた頃も楽しかったけれど、千尋の伴奏で歌うのは格別だ。まるで自分の声ではないかのようにどこまでも伸びるのも、きっと千尋の演奏のおかげに違いない。
歌い終わると、千隼は目を丸くして呆然としていた。そんな反応が新鮮で思わず鈴が近寄って抱き上げると、突然手足をバタバタさせて喜びだす。
「満足したようですよ」
「千尋さまのおかげですね!」
鈴が言うと、千尋は穏やかに微笑んで鈴を手招きして鈴の手から千隼を受け取り、自分の隣を叩いた。
「千隼、いいですか? この音がドです。そしてその隣がレ。こんな風にピアノの鍵盤は横にドレミファソラシドと並んでいるのですよ」
「ち、千尋さま、千隼には流石にまだ早くないですか?」
「そうですか? 言葉の意味は分からなくても感じる事は出来ます。あなたはどの音が好きですか?」
そう言って千尋が千隼を鍵盤に向けると、千隼は闇雲に鍵盤を叩き始める。どうやら音が鳴るのが嬉しくて仕方ないようだ。
「喜んでる……」
「龍は音楽が好きなのです。それはきっと、赤ん坊の頃から変わりません」
そんな事を言いながら千隼に鍵盤を叩かせる千尋の横顔は、とても綺麗ですっかり父親の顔だった。
そんな光景を見ていた楽が部屋の隅から太鼓を持ってくる。それを見て千尋は笑って鈴の膝の上に千隼を置いて、鈴が大好きなアメイジング・グレイスを奏で始めた。
その拍子を楽が取るので鈴は嬉しくなって千隼を抱いて歌い出すと、千隼も声を張り上げて意味のない言葉を叫ぶ。
何だか嬉しくなって鈴は千隼を抱きしめて頬にキスすると、千隼もはしゃいだ。
ほんの少しの間の演奏会は夕食の時間が来たことで終わりを告げたが、鈴の中に何かすっかり忘れかけていた気持ちを思い出させた。
家族の時間、それはいつだってこんな風に温かくて幸せで、こんなにも穏やかだったのだ。
夕食を終えて千隼をお風呂に入れる練習をしようと雅に言われ、鈴は菫と雅と共に千隼の入浴をさせた。それを後ろから千尋と楽が真剣になって見ている。
「明日は私が沐浴をさせましょうか」
「それじゃあその時は俺が手伝います!」
「ええ、お願いしますね。それにしても角は洗いにくそうですね」
「全くだよ! 何でこんな入り組んだ構造してんだ!」
角の隙間に指を突っ込んで洗ってやりながら、雅が鼻を鳴らした。結構雑く洗っているように見えるが、あれで良いのだろうか?
「水龍は一番角の分岐が激しいのですよ。楽の角は分岐など無かったでしょう?」
「言われてみれば……それに流星さまのは角の先が二本に分かれていました!」
「そうなの?」
「うん。よく絵に描いてあるみたいな角だったよ」
「へぇ、面白いのね。楽、今度あなたのも見せてよ」
「いいけど……小さいって馬鹿にしない?」
「しないわよ。何よ、あんた小さいの?」
「今は大分デカくなったけどな! それでも千尋さまほどじゃないよ」
「そうです! 楽さんは最初ここへ来た時は、これぐらいだったんですよ! それが今はとても立派になられて……」
思わず楽が神森家にやってきた時の事を思い出した鈴が身を乗り出して言うと、楽は慌てたように鈴の口を塞ごうとする。
「言うなよ!」
「ご、ごめんなさい!」
「いいじゃないですか。誰にだって小さい頃はあるものですよ。千隼が龍の姿に変われるようになったら楽、頼みましたよ」
「はい!」
千隼の沐浴を終えて千隼をマチ達に預け、ようやく鈴が自分の事を終えた頃にはすっかり遅くなっていた。
千尋の寝室に戻ると、千尋は寝台の上で千隼を寝かしつけていたのか、千隼の胸の上に手を置いてすっかり眠り込んでいる。
鈴はそんな光景をこっそり写真に撮って自分も寝台に横になって目を閉じた。千隼を挟んで親子三人で眠る事が出来るのはあと何日なのだろう。そんな事を考えていると、そっと頭に何かが触れた。
驚いて目を開けると千尋が今度は鈴の頭を撫でてくれている。
「そんな顔をしないで、鈴さん。どうか良い夢を見てください」
「起きていたのですか?」
「ええ、今しがた。鈴さんの気配がしたので。私はどうやら千隼を寝かしつけながら眠ってしまっていたのですね」
苦笑いを浮かべた千尋に鈴も笑顔で頷いた。千尋もまた鈴に力をずっと使い続け、疲れているのだ。
「思わず写真を撮ってしまいました」
「そうなのですか? それには全く気づきませんでした……では、明日の朝はあなたと千隼を撮ることにしましょうか」
「えっ!?」
「いけませんか?」
「い、いけなくはないですが、私の寝顔と千尋さまの寝顔では天と地程の差があると思うのですが……」
「そんな事はありません。私にとってあなたの寝顔はとても安らぐのですよ。だから出来るだけ悲しい顔をして眠らないで欲しいのです」
「千尋さま……はい」
それは鈴もだ。穏やかに眠る千尋を見ると安心する。思わず微笑んだその時、ふと視線を感じて二人して千隼を見ると、千隼は目をぱっちり開けて鈴と千尋を凝視している。
「お、起きてる……」
「……起きてますね」
その瞬間、千隼は闇を切り裂きそうな程の声で泣き始めたのだった――。
翌朝、鈴と千尋は二人してぐったりとして寝室から出ると、そこにはマチと雅が何故かニコニコしながら立っていた。
「叔母様、雅さん……おはようございます」
「おはようざいます、二人とも」
「はい、おはようさん。で、どうだった? 子育て一日目は」
何故か嬉しそうな雅を軽く睨みつけた千尋は、すやすや眠る千隼の頬を突きながら言う。
「戯ける暇もありませんでした」
「そうだろうね! ははは!」
「……嬉しそうですねぇ、雅」
「まぁね! さ、朝食朝食!」