「別に責めている訳ではありませんよ。でも今はまだ千隼の誕生を一緒に喜びましょう」
「そう、ですよね!」
千尋の言う通りだ。千隼が産まれたばかりだと言うのに、既に千尋との別れを考えている場合ではない。
鈴は千隼を千尋の膝の上に置くと、以前のように千尋の隣に腰掛けてハーブティーを飲んだ。
「ん? 千隼も飲むのですか?」
鈴がハーブティーを飲んでいるのを見て、千隼がテーブルの上に手を伸ばす。それを見て千尋が自分のハーブティーを冷まして千隼の口元へ持っていくのを、ギョッとしたような顔をして雅と菫が止めた。
「ちょっとあんた! 何やってんだ!」
「そうよ! 千隼君を殺す気!?」
「お、おい落ち着けって二人共!」
思わず立ち上がった二人を見て止めたのは楽だ。
「龍の子は産まれた時から何でも食うんだよ。授乳だけじゃ栄養を賄えないんだ。だからこんなデカい状態で産まれてくるんだよ」
「そ、そうなのかい?」
「え……凄いのね」
「ああ。ただ固形物は潰してやらないといけないけどな。クッキーだってこうやって砕いたら……」
そう言って楽は持っていたクッキーを砕いてスプーンに乗せると、それをおもむろに千隼の鼻先に持っていった。しばらくキョトンとしていた千隼だったが、鼻をヒクヒクさせて匂いを確認した瞬間、口をパカっと開け、スプーンに食らいつく。
「ほらな?」
「か、可愛いです! 千尋さま」
「そうですねぇ。まるで鳥の雛のようですねぇ」
その光景があまりにも可愛くて思わず手を組んだ鈴とは裏腹に、雅と菫はそんな光景を見て愕然としている。
「そ、そんな馬鹿な……産まれたのさっきだよな……?」
「こ、怖いんだけど……何であんたはそんな呑気に喜んでるのよ……」
「え? だって龍の子だもん。ドラゴンの子って事は爬虫類に似てるのかなって」
何なら最初は卵で産まれてくるのではないかと思っていたほどだ。それを告げると今度は千尋と楽が引きつる。
「……鈴さん……」
「お前な……」
何故か皆呆れた顔をしていうが、千隼と鈴だけはキョトンとしていて、その顔がそっくりだと千尋に笑われてしまった。
「まぁ何にしても何でも食べるのは有り難いな。こりゃ早速喜兵衛の離乳食が役立つじゃないか」
「本当ですね! 私も色々と勉強したんですが、喜兵衛さんには全然敵いません」
「おや、もうそんな事を勉強していたのですか?」
「はい! 産まれてから慌てるのは嫌だなって思って」
「そうでしたか。あなたは本当に勉強家ですね」
千尋は優しく鈴の頭を撫で、ついでだとばかりに千隼の頭も撫でた。そんな千尋の行動に千隼は嬉しそうに笑っている。
「でもそれは千尋さまもです。お産について沢山勉強してくれたのですよね?」
「私の場合は生まれるまでの事についてだけですから。これからは子育ての方も勉強しないといけませんね」
そう言って千尋が千隼を抱いていない方の手をそっと鈴の手に重ねてきたので、鈴はその手を反射的に握り返す。
「でも今度は一緒に勉強したいです……」
「それはもちろんです。私も勉強しながらどうしてあなたが隣に居ないのだろうとずっと考えていました。二人目の時は一緒に勉強しましょうね」
「はい! 千尋さまと一緒だったら、どんな事もすぐに覚えられそうです」
「そうですか? 勉学に関しては私は厳しいですよ?」
「覚悟しています!」
「では間違えたら罰としてキスを一度する事にしましょう」
「そ、それはご褒美では……?」
思わず鈴が聞き返したその時、大きな咳払いをして楽が立ち上がり、千尋の膝の上からそっと千隼を取り上げて無言で部屋を出て行った。
そんな楽を見送って今度は雅が呆れたように大きなため息をついて言う。
「あんた達は本当に! いつまで経っても! ずーっと新婚気分だね! 教育に悪い! 千隼は連れてくよ!」
「雅の言う通りよ……このままじゃ千隼君がおかしな育ち方しちゃうじゃない」
「……」
「……」
二人に責められて思わず千尋と顔を見合わせると、そんな鈴達を見てとうとう雅と菫も部屋を出て行ってしまう。
「気を、遣ってくれたのでしょうか?」
「恐らくそうでしょう。鈴さん、ただいま戻りました」
「っ……はい!」
両手を広げた千尋を見て、鈴は躊躇うことなく千尋の胸に飛び込んだのだった。
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「千尋さま、いつまでこちらに居られそうですか?」
千尋は鈴を膝の上に抱えたまま、鈴の言葉に千尋は少しだけ視線を伏せた。鈴には手紙で先にこれからの予定は伝えてあるが、次に戻ったらもう本当にしばらくは鈴と連絡が取れなくなる。
「出来るだけ長く居たいですが、あちらでは今、謙信達の軍勢が都の外に集まっていて膠着状態なのです。王が退陣すれば、恐らく一気に都に攻撃を仕掛けてくるでしょう」
「あまり居られない……という事ですよね?」
「そうですね……3日、あるいはもっと早いかもしれません」
王の退陣をできる限り引き伸ばしてもらっているが、それもそろそろ限界だろう。鈴の出産に間に合っただけでも良しとしなければいけないのかもしれない。
鈴もその事を理解しているのだろう。悲しげに視線を伏せる。
「そうですか……では千尋さま、その間に写真を沢山撮りましょう」
「鈴さん……許してくれるのですか?」
「当然です。だって、千尋さまは私達を都で受け入れる為に頑張ってくれているのですから」
寂しそうに微笑んだ鈴に千尋は心から感謝した。鈴はいつもわがままを言わない。無理を言わない。それを知っているから余計に鈴の優しさに甘えてしまっているのは千尋の方だ。
千尋は鈴を強く抱きしめて、これから必ず訪れる別れを振り払うように口づける。
長い口づけを終えてふと目を開くと、鈴が目を丸くして千尋の顔を凝視していた。
「何です?」
「ち、千尋さま、その……模様が、その……」
言いにくそうに目を泳がせている鈴を見て、千尋がふと視線を鏡に向けると、鈴の言う通りしっかりと顔に婚姻色が浮かび上がっている。
「ああ……また……」
たった一度の口づけで婚姻色が出てしまうのか。それに気づいた途端、千尋は思わず片手で顔を覆って笑いだしてしまった。
「ち、千尋さま? 大丈夫ですか?」
「いえね、この調子だと私はあなたと居るとこれから先ずっと婚姻色が出てそうだなと思ったんですよ」
「そ、それは困ります! その模様は私だけが見られるものです!」
慌ててそんな事を言う鈴の可愛い独占欲に千尋はまた笑ってしまう。
「そうですね。ですが、あなたと居ると私は心の底から満たされてしまうようです」
「では本能を、本能を抑えてください!」
「なかなか無茶を言いますね。これでも大分我慢しているのですよ」
そう、大分我慢している。本当であれば今すぐにでもこの屋敷ごと都に持って帰りたいのだ。
けれど今それをしたら間違いなく鈴や千隼は狙われる。
千尋は鈴を抱きしめて腕の中に閉じ込めると、静かに言った。