「楽、あなたにもとうとう弟が産まれました。この子に恥じないよう、兄として色んな事を教えてやってくださいね。それから二人で鈴さんを守るのですよ」
「あ……に? 千尋さまも、そう……言ってくれる……の?」
「当然でしょう。あなたはうちの長男だと、皆は思っていると思いますが」
「……うん」
千尋から千隼を受け取った瞬間、そのあまりの重さに思わず角が出た。
千尋の言葉はあれほど不安で仕方なかった楽の心にスッと染み込んできたけれど、憂いを全て取り払ってくれたのは、千隼だ。
千隼は楽の顔を見るなり手を伸ばして楽の顔を触ろうとしてきた。そんな仕草に思わず顔を近づけると、楽の頬やら口やらをベタベタ触って声を出して笑う。それを見た瞬間――。
「やべぇ……可愛い……」
思わず漏れた声に隣から菫の笑い声が聞こえてきた。
「どう思おうと、あなたの自由よ?」
その言葉は楽の背中を押した。楽は今日、千隼の兄になったのだ。
♥
鈴が目を覚ますと、そこは多目的室ではなくて千尋の寝室だった。
「ん……」
どうにか身体を起こそうとしたが、生憎動けない。ふと後ろを見ると、そこにはがっちりと鈴をホールドして眠る千尋が居た。
「千尋……さま……え!? 千隼は!?」
辺りを見渡しても千隼は居ない。まさか全て夢だった……のか? 思わずお腹を抑えた鈴の背後から、千尋の忍び笑いが聞こえてくる。
「大丈夫。千隼は雅と楽と寝ていますよ。というよりも、放してくれないのですよ、あの二人が」
「あ、そう、でしたか……もしかして夢だったかと思ってしまいました……」
「そんなまさか! 流石にあの長時間を夢だとは思わないでしょう?」
「そんなに長く時間が経っていたのですか?」
時間を気にする余裕もなかった鈴だったのだが、その言葉に千尋が驚いたように息を呑んだ。そして鈴の身体をぐるりと反転させて鈴の顔を正面から覗き込んでくる。
「本気ですか? 十時間以上もあなたは苦しんでいたのですよ?」
「そんなにですか! 何だか産まれた瞬間、全部どっか行っちゃっていました……」
「……母は強いですね……」
「千尋さまとの子だと思うと、それだけで胸がいっぱいになったんです。痛かったし苦しかったけど、それよりも会いたい、会わせたいという思いが強かったと言いますか……それに、それまでずっと不安だったけど、千尋さまの顔見たらホッとして、もう大丈夫だって……千尋さま、ありがとうございました。来てくれて、支えてくれて、本当にありがとうございました」
鈴はそう言って千尋の胸に頬を寄せた。そんな鈴を抱き寄せて千尋が声を詰まらせる。
「あなたに伝えたい言葉は沢山あるんです。ですが、今はまだ何も言えない……感謝の言葉すら足りないような気がして……でも、必ず伝えていきます。これから一生をかけて、今日の事を私はこれからあなたにずっと伝え続けます。それぐらい感動し、言葉にならない幸福感を味わい、あなたを今まで以上に愛しいと感じたのです。それを辛抱強く受け取ってくれますか?」
「もちろんです。私も今日の事を事あるごとに話すと思います。千尋さまも嫌がらずに聞いてくださいね」
「当然です。私があなたの言葉を聞き漏らすだなんて、そんな事をすると思いますか?」
そう言って笑った千尋を見て、鈴はおかしそうに首を振った。
「思いません」
「そうでしょう? さて、そろそろ起こしに来ると思いますよ」
千尋がそう言って鈴の頬を撫でたその時、猫雅が何の前触れもなく部屋に飛び込んできた。
「鈴! 起きたんならもう自分でやれるね! 早速千隼に乳やってくれ!」
「は、はい!」
「雅……あなた、せめて声はかけませんか?」
呆れたような千尋に雅は器用に立ち上がって照れたように頭をかいている。
そんな雅に呆れながらも、千尋は鈴の身体を起こしてくれた。
「姉さん、もう入ってもいい?」
「ああ、構わないよ! ほれ、連れてきたから」
雅の言葉に楽が千隼を抱いて寝室の外からそっと顔を出した。そしてその隣には菫も居る。
「菫ちゃん!」
「鈴!」
菫はここが千尋の寝室だという事も忘れているのか、遠慮なく楽を追い越して鈴に正面から抱きついてきた。
「良かった! 赤ん坊の声は聞こえたけどあんたの声は聞こえないし、かと思ったらそのまま部屋に運ばれて行くし……何かあったらどうしようかって……」
「ごめんね、菫ちゃん。もう大丈夫だよ。千尋さまが力をいっぱい流してくれたんだ」
「そうみたいね。血色も良くなってる」
そう言って鈴の頬を撫でる菫の手は、不安だったからか随分と冷たい。
そんな菫の手を握って鈴は言った。
「千隼はもう抱いた?」
鈴の質問に菫は少しだけ戸惑ったように首を振る。
「どうして? 可愛くなかった?」
「そんな訳ないでしょ! ただその、ちょっと……怖いのよ」
「怖い? 菫ちゃんが?」
何も怖いものなど無さそうな菫が、こんなにも自信が無さそうな姿は初めて見た。
鈴が思わず驚くと、菫はそんな鈴を軽く睨みつけてくる。
「私にだって怖いものはあるわよ!」
「抱いてあげて、菫ちゃん。前に約束したよね?」
一番に菫に抱かせに行く。その約束は守れなかったけれど、菫には絶対に千隼を抱いて欲しい。
楽から千隼を受け取った鈴を見て、千尋と雅、そして楽が寝室から出ていく。
「はい」
「う、うん……」
皆が出て行った事を確認して菫に千隼を手渡すと、菫はゴクリと息を呑んで恐る恐る千隼を抱くと、途端に目に涙を浮かべた。
「小さいのね……」
「うん」
「可愛い角」
「うん!」
「顔、あの人そっくり」
「だよね」
「でも目はあんたと一緒。青空みたい……」
嬉しそうに涙を浮かべて千隼を抱く菫に、鈴は思わず抱きつきたくなったけれど、グッと堪えた。
「この目はこの国ではあんまり喜ばれないから、ちょっとだけ心配だよ」
何せ髪と目の色が違う事で未だに街に出ると色んな人達に凝視されるのだ。
そんな鈴の心配とは裏腹に、菫は眉をつりあげて言った。
「そんな事言う馬鹿がいたら連れてらっしゃい。私がボコボコにしてやるから」
「ボ、ボコボコ……」
「でもそんな事にはならないわよ。だってこれだけ綺麗な子なんだもの。虐められるどころか、逆に拝まれるんじゃないの」
「うん!」
何せ千尋によく似た美しい子だ。虐められる訳がない。鈴は頷いて菫に両手を差し出した。すると、そこに菫が名残惜しそうに千隼を置いてくれる。
「これからお乳あげるんだけど、菫ちゃん一緒に居てくれる?」
「もちろん。私も後学の為に色々勉強しておかないとね」
そう言って微笑んだ菫と顔を見合わせて鈴も笑った。
授乳が終わって千隼を抱いて部屋を出ると、そこには千尋と雅と楽が三人でクッキーを食べながらお茶をしていた。
「無事に終わりましたか?」
「はい!」
千尋は鈴の顔を見るなり自分の隣を叩いて鈴に座るよう促すが、その光景が何だか物凄く懐かしくて思わず泣きそうになってしまう。
「そんな顔をしないでください、鈴さん」
「ご、ごめんなさい」