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第359話

 赤ん坊の身体を一生懸命タオルで拭いながら、マチが涙を流している。そんな光景を見てようやく千尋にも実感が湧いてきて鈴を抱きしめる。


「鈴さん……鈴さん」

「……」


 思わず鈴に抱きつくと、千尋をあやすように鈴が背中を撫でて小さく息を吐き出した。


 そこへようやくマチが赤ん坊を連れてきて鈴に抱かせようとしたが、鈴はもう全ての体力を使い果たしたようで動く事すらままならない。


「私が支えます。鈴さん、抱きたいでしょう?」


 千尋の言葉に鈴は小さく微笑んで頷くのを見て、千尋は鈴を後ろから抱きかかえて鈴の腕を支えて座らせてやった。そんな鈴の腕に赤ん坊をそっと抱かせたマチは頭を下げて部屋を出ていく。


 鈴は千尋に全体重を預け、マチから受け取った赤ん坊をじっと見下ろしていたかと思うと、不意に涙を零して千尋を見上げてくる。


「ちっちゃい、つの……」

「本当ですね。まだ柔らかいと思いますよ」


 そう言って千尋は鈴と赤ん坊を片手で抱えながら、震える指でそっと赤ん坊の角に触れてみた。グニグニとした角はまだ柔らかい。


「千尋さま、震えてる。涙、も」


 気がつけば千尋は涙を零していたようで、それがポツリポツリと鈴と赤ん坊に落ちる。


「そりゃ、あなたとの子ですから感動してしまいます。色々伝えたい事もあったのに」


 いざその時がやってきたら感謝の言葉も愛の言葉も全て消し飛び、残っていたのは感動だ。言葉を失い、心も身体も空っぽになり、この世界には千尋と鈴とこの子しか居ないような錯覚に陥る。


 千尋は鈴と子どもを抱きしめて鈴の肩口に顔を埋め、声も無く泣いた。


 ようやく涙が止まり顔を上げると、鈴と子どもが同じ顔をして心配そうに千尋を見つめていて、何だかその仕草があまりにもそっくりで思わず笑ってしまう。


「髪の色は私ですね。でも瞳が鈴さんの色です」

「はい。全体的な顔立ちは千尋さまです。きっと美しい子になると思います」


 少しずつ回復しているのか、鈴の声がしっかりとしてきだした。


「ところで鈴さん、名前は何か考えていましたか?」

「……それが……色々と考えてはいたのですが、どれもあまりしっくり来なくて。それに名前を考えるのは、やっぱり千尋さまとしたかった……です」

「やっぱりそうですよね。私も一応色々字画を見たり易で調べたりしたのですが、どれもあまり……」


 二人で顔を見合わせていると、不意に赤ん坊がぐずり始めた。


「早く決めてって言ってるのでしょうか?」

「どうなのでしょう? そう言えば人間はどんな風に子どもに名前をつけたりするのですか?」

「イギリスでは多分、普通に意味や願いを込める方が多いと思うのですが、日本では菫ちゃんは親の名前を一字貰う人も多いって言ってました。それを聞いて素敵だなって。だからこの子は千尋さまのお名前から一字借りられたら嬉しいです」

「私の名前から? そうですね……では、千隼とかどうですか?」

「ちはや?」

「ええ。響きは女性の印象が強いかもしれませんが、ほら、私も千尋なので。それに鈴さんが神事の時に着るあの巫女装束。あれが千早というのですよ」

「! では、私と千尋さまの子って意味ですか?」

「そうですね。何より激しいとか勢いがあるという意味もあるので、この子にはぴったりでしょう?」


 そう言って千尋はようやく笑顔になった千隼の頬をつつくと、千隼は声を出して笑う。


「千隼……千隼……可愛いお名前です!」

「そうですね。呼びやすいですしね。ではこの子は千隼です。そして二人目の子は鈴さんの名前を取りましょうね」

「はい!」


 嬉しそうに笑って千尋の胸に頬を寄せてくる鈴と、そんな鈴に抱かれて微睡んでいる千隼を見て、何だか胸が詰まりそうになる。これが幸せというものなのか。改めてそんな事を実感していた千尋に、鈴がそっと千隼を手渡してきた。


「千尋さまも抱いてあげてください」

「いいのですか?」

「もちろんです! 千隼もパパに抱っこされたいよね?」


 そう言って千隼の顔を覗き込む鈴の横顔は、もうすっかり母親の顔だ。


「パパ?」

「あ、すみません! イギリスでは子どもの頃はdadをパパと呼んでいたのでつい……お父様とかの方がいいですか?」

「はは! いえ、パパで良いですよ。私はあなた達家族の前ではただの千尋です。どこにでも居る、普通の父親で夫ですから。そしてあなた達の前でそうしていられるのが私の幸せです。ちなみに母親の呼び名は?」

「えっと、ママ……です」

「なるほど。では千隼に話す時はそう呼びかけるようにしましょう。ですが、私と話す時はいつまでも名前で呼んでくださいね?」

「もちろんです! 私もいつまでも千尋さまのお名前を呼びたいです」

「お揃いですか?」

「はい。お揃いです」


 千尋は鈴から千隼を受け取り、その小さなおでこに自分の額を押し当てた。そして諭すように話しかける。


「いいですか、千隼。私はこれからしばらくママの側にはいられません。あなたがママを守るのです。お腹の中でママを守っていたように、これから私が迎えにくるまで、鈴さんを任せましたよ」


 すると、千隼の角がピリピリと震えた。こんなに小さくても何となく理解しているのだろうか。それは分からないが、千尋は優しく千隼を抱きしめる。


 そんな千尋と千隼を鈴が幸せそうな、けれどどこか悲しそうな顔で見ていた。



 時は少しだけ遡り、楽は鈴のお産の途中で耐えられなくなって部屋から泣きながら飛び出してきた菫を慰めていた。


「ど、どうして、あの子が、こんな目に……」

「いやお前、こんな目って言うけどな? 大体どこの母親もあの想いしてるんだからな?」


 菫はもう楽の前で泣くのは解禁したようだ。グスグスと鼻を鳴らしながら、楽が大事にしている水龍を模したぬいぐるみの尻尾を抓っている。


「あのさ、ぬいぐるみに当たるなよ」

「本人に当たれないんだからしょうがないでしょ! 何よ! 水龍なんて知らないわよ! あんなおっきい赤ちゃん……もし鈴に何かあったらどうするのよ!」

「嬉しくないのか?」

「嬉しいわよっ! 嬉しいに決まってるでしょ! だからあの人には当たれないのよ! 鈴はだって、あの人との子どもを凄く喜んでたもの。妊娠が分かってからずっとその話してたし……だから私も本当に嬉しいの。でもね、割り切れないの。鈴が辛そうで苦しそうで……見てられなかった……最悪の姉だわ……」


 どうやら菫は途中で逃げ出してきてしまった事を後悔しているようだ。


 楽は菫の手からぬいぐるみを取り上げると、代わりに喜兵衛が配ってくれたみかんジュースを菫に持たせた。


「泣きすぎて声枯れてんぞ。それから、お前は逃げてきたんじゃなくて、泣きそうだから出てきたんだろ?」

「……なんで」

「偉大な姉は辛そうな妹の姿を見てうっかり泣きそうになったんだよな? でもあいつが頑張ってるのに横で泣けない。だから部屋から出てきたんだろ?」

「……」


 図星だったのか、菫は俯いてオレンジジュースを飲みながらそっぽを向く。

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