浅い息を繰り返す鈴を見かねたのか、それまで腰をさすってくれていた千尋が鈴の頭の方に回り込み、あぐらをかいたかと思うと鈴の上半身を抱えた。
「力を流します。多分、私の力に反応してこの子は多少暴れるかもしれませんが、鈴さん、どうか耐えてください」
「は、い。っうぅ!」
返事をするよりも先に背中から懐かしい千尋の力が流れ込んできた。それと同時にお腹の子が一際激しく暴れ出したのだ。
千尋は鈴の指に自分の指を絡め、ゆっくりと力を流してくれている。鈴には馴染のある感覚だが、お腹の子にとっては初めて触れる他の龍の力に驚いているのだろう。
あまりにも暴れるので苦しくなって思わず鈴が咳き込むと、千尋は眉根を寄せて力を流すのを止めた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、です。だから……止めないで……この子に、ちゃんとあなたを……会わせて、あげたい……です」
「鈴さん……」
泣きそうな不安げな千尋の声に鈴が千尋の顔を覗き込むと、そこにはいつもの冷静で威厳に溢れた千尋の姿などなく、ただただ妻を心配する青年が座っていた。
鈴は思わず手を伸ばして千尋の頬を撫でると、千尋は驚いたような顔をして苦笑いを浮かべる。
「私の心配は今はしなくていいのですよ」
「で、も……っは……っくぅ!」
何かがお腹の中で弾けた感覚がした。それと同時にお腹の痛みが一層激しくなり、それが徐々に全身に広がっていく。
「破水しました! 鈴ちゃん、頑張って! 前に教えた通りに、大丈夫よ。絶対に大丈夫だから!」
「はっ、うぅ、ひっ、ひっ」
尋常じゃない痛みに鈴はマチに教わった事も実行できずに息を詰まらせた。その時、千尋がまた鈴と指を絡めて鈴にだけ聞こえるように耳元で囁いてくれる。
「ここにちゃんと居ますからね。あなたが無事にお産を終えるまで、ここにずっと居ます。いつかあなたが夢で見た未来が、もうじきやってきます。今度はどうか私にもその光景を見せてください」
「あ……っう……いっ、っつ」
返事は出来ないけれど、鈴の頭の中に浮かんできたのは初めての神事の日に見た夢の光景だ。男の子の水龍と、小さな水龍と一緒に花を摘み、テラスでこちらを見ながらバイオリンを弾く千尋に届けに行く。
些細な、けれどこれ以上ない幸せな夢だ。
鈴はコクコクと頷いて大きく深呼吸をした。
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千尋は鈴の上半身を抱えるように抱いたまま、かれこれ8時間は力を流し続けていた。鈴はその間ずっと叫び続け、今はもうその元気すらない。
鈴と千尋は互いに汗だくだ。そんな二人の汗を横から一生懸命拭いてくれるのは雅である。
「ちょっとあんた大丈夫かい?」
「ええ。鈴さんがこんなになっているのに、私が先に音を上げる訳にはいかないでしょう?」
「そりゃそうだけどさ、ちょっと休憩してきたらどうだい?」
「いいえ。最後までここに居ます。やっと、会えたのですから」
千尋はそう言って身体を折り曲げて大事なものを包み込むように鈴に覆いかぶさった。
ふと手を見ると千尋の手の甲には鈴がつけた爪痕がついていて、うっすら血が滲んでいる。それだけでどれほどの痛みが今、鈴を襲っているかが分かった。
「どうだい? マチ!」
「つ、角がありました! でも産道が細すぎて角が引っかかりそうです!」
「やはり、そうですか」
「どういう事だい!?」
「実は――」
先ほどマチにした説明をそのまんま雅に話すと、雅はしばらく考え込んでいたが、やがて意を決したように頷いた。
「これ以上長引くのは鈴にもこの子にも危険だよ。マチ、ちょっと代わりな」
「え、は、はい」
雅に言われてマチが場所を雅に譲った。すると、雅は鈴の足の間に手を突っ込み、いつになく険しい顔をして言う。
「鈴、いいかい? 荒療治だけど引っ張り出すよ」
「み、雅? あまり無茶は……」
「何が無茶だ! 鈴の身体に龍の子はデカすぎるんだよ! これ以上長引くのは危険だ! どのみち引っ張り出さなきゃ一生かかっても出てこないよ! あんたも! 死ぬのが嫌ならそっからさっさと這い出てきて母ちゃん守りな!」
そう言って雅は千尋とお腹の子を睨みつけ、最後に鈴に微笑みかけた。
「あんたも頑張りな。これで最後だ。いいね?」
「っっ」
声はないが、かろうじて頷いた鈴は心身ともにもうすっかり疲れ果てている。さっきから何度も意識を失いそうになり、その度に千尋が揺り起こした。雅の言う通り鈴はもう限界に近い。
「あなたの言う通りですね。雅、角など多少折れても問題ありません。力が半減するだけです。そこから引きずり出してやってください」
「任せときな!」
鈴はもう自分で力を入れる事も出来ない。それは千尋も感じていた。
千尋が力を流しているから鈴はかろうじて意識を保っているが、もし間に合わなかったらと思うとゾッとする。
「鈴さん、私も頑張ります。もう少し、もう少しです」
「……は……い」
叫びすぎて掠れた声で、息も意識も絶え絶えに鈴は言葉を発した。そんな鈴が愛しくて辛くて鈴の手を強く握りしめると、弱々しいけれど鈴も手を握り返してきてくれた。
代わってやりたい。こんな思いを鈴がするのなら、子どもなんて作らない方がいいかもしれない。そう思う反面、鈴との子が待ち遠しくて仕方ない自分も居る。
男親はこんな時、皆一体何を思っているのだろう。妻が苦しみ、叫び続けながら自分との子をこの世に産み落とす瞬間、他の父親は何を願っているのだろう……。
「会いたいです、あなたに……だからどうか早く出てきてください。そして元気な鈴さんをそろそろ私に返してくれませんか? あなたも早く鈴さんに抱かれたいでしょう? 一緒に眠り、一緒に食事をし、一緒に歌いたいでしょう?」
鈴のお腹に手を当てて千尋が囁くと、鈴の身体が強張った。それと同時にお腹が激しく波打ちだす。
「っっっ!!!」
声にならない悲鳴を上げる鈴を見て千尋が息を飲んだのとは裏腹に、雅がにんまりと口の端を上げた。
「つ~かまえた。よし、行くぞ! 鈴、千尋、踏ん張れ!」
その掛け声を聞いて鈴が千尋を見上げてきた。
その目には先ほどまでとは打って変わって、力強い意思が宿っている。まるでここへ嫁いできた時のような、青く澄んだ空のようだ。
そんな鈴の目を見て千尋も頷き、鈴の手をとりありったけの力を流し込む。
そしてとうとう――。
「……」
「……」
鈴のお腹が平らになり千尋と鈴が思わず呆けた直後、部屋中に赤ん坊の大きな泣き声が響き渡った。
その声は鈴の声のようにどこまでも澄み、廊下から一拍置いて歓喜の声が聞こえてくる。
「産ま……れました……?」
「……」
力を使いすぎた千尋と鈴だけがまだ呆然としていたが、赤ん坊を取り上げた雅は赤ん坊をマチに手渡し、手早く鈴の産後の処理をすると、さっさと廊下に飛び出して行く。きっと皆に報告に行ったのだろう。
「ああ、鈴ちゃん、千尋さま、とても綺麗な子ですよ! 本当に綺麗な子……」