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第355話

 今の鈴は痛みの辛さよりも喜びの方がはるかに勝っていた。



 仕事に復帰した千尋は以前よりもずっと精力的に仕事に励んだ。何せ鈴が都へやってくるのだ。ほんの少しの妥協も許す訳にはいかない。


「千尋、お前最近絶好調だな。一体何があったんだ?」


 屋敷にまで仕事を持ち帰ってくる千尋に栄が心配そうに尋ねてくる。


「別に何もありません。鈴さんからの手紙が届いただけですよ」

「ああ、なるほど。何か嬉しい事でも書いてあったか?」

「それはもう。鈴さんは毎晩のように私達の馴れ初めを子どもに聞かせてやってくれているそうです。それを聞かないと一晩中蹴られるそうですよ」


 少しだけ口の端を緩めてそんな事を言う千尋に、栄が首を傾げる。


「それが良い手紙なのか?」

「もちろんです。鈴さんが私の居ない間に私達の話を毎晩してくれているのですよ? これは間違いなく良い手紙です」


 千尋が都に戻る前、鈴はずっと不安気だった。その不安が千尋の居ない間に他の誰かに向いてしまうのではないかと千尋も心配したが、そんな事は全然無かった。


 そして子どもが出来た事で鈴との絆がより深まったような気がする。声を聞くことも顔を見ることすらも許されないけれど、心の中の機微を手紙でも細かく伝えてくれる鈴に、千尋はどれほど安心していることだろう。


「また早く一緒に暮らしたいですよ」


 ポツリと独り言のように千尋が言うと、栄は肩を竦めて笑う。


「お前がそんな事を言うようになるなんてな。俺も今から会うのが楽しみだよ」

「会うのは良いですが、あまり鈴さんを怖がらせないでくださいね。あなたはただでさえ大きいのですから」

「嫁さんからしたらお前だって十分デカいだろうが」

「それはそうですね」


 最初の頃、鈴を初めて抱き上げた時に鈴が慄いていたのを思い出して千尋は笑った。あの時は鈴の事など気に入っているだけで、そこまでの感情も関心も無かった。


 もしも今であればあんな手軽な感じで抱き上げたりは絶対にしない。落としてしまわないよう、鈴が怖がらないよう配慮する。絶対に。


 そして千尋の身長を聞いた時のあの鈴の顔を、千尋は一生忘れないだろう。


 流星から応援に来て欲しいと要請があったのは、それから半月後の事だった。


「一体何事ですか」


 流星に呼ばれて辿り着いたのは都と外のギリギリの境界だった。千尋が到着すると流星は呆れたように視線だけを外に向ける。


「これは……戦争でも起こす気ですか?」


 そこには群れを成した龍たちが大量に地上に流れ込もうとしていたのだ。


「知らない。でもこれの主導は謙信じゃない」

「では千眼?」

「恐らくね。さあ、仕事しよっか。皆、ついて来い」


 流星の声に集まっていた兵士達が龍に戻り流星の後に続く。千尋は最後尾に回って少し離れた場所からその様子を見ていたのだが、千眼もここには居ない。


 その時だ。ふと視線を感じて振り向くと、眼の前に大きな円環が出来上がっていた。


 その中央にいるのは千眼だ。その円環を見て地上に降りようとしていた龍たちの士気が一斉に上がる。何せ円環は全て千尋の方を向いていたからだ。


「こんな所で円環を出すのですか」

「うるさい、黙れ。お前も地上も粉々に砕いてやる」

「なるほど。それは怖いですね」


 そう言って千尋はスッと身体を起こした。水龍は他の龍と比べると小さい。龍の姿でもそれはそうだ。


 けれど力はどの龍よりも強い。身体を起こした千尋を見て周りに緊張が走る。


「俺だって腐っても水龍だ。お前を倒すことは出来なくても、円環を操る事ぐらいは出来る」


 そう言って千眼は円環を千尋に向かって放った。それと同時に千尋は泳ぐように上昇気流に乗ると、縦横無尽に敵の中を泳いでやった。するとあちこちから敵の龍たちのうめき声が上がる。円環の矢の一本一本を制御する事は難しい。こんなにも密集した所であんな物を発動すれば、こうなる事は分かっていたはずだ。


 そんな千尋の動きに千眼は怒り狂ったように尻尾を振り、さらに大きな円環を出した。そしてそれらは全て千尋目掛けて飛んでくる。


「残念ですよ、千眼。本気のあなたの力がこんなものだなんて」


 千尋がそう言うと角がビリビリと震えだし、一瞬の眩い光が辺りを照らした。それと同時にこちらに向かってやってきた円環の矢が一瞬で跡形も無く消え去る。


「い、一瞬……だと?」


 千眼は愕然とした様子で一瞬呆然としていたが、ハッとしたように顔を上げ、その場から立ち去った。そんな千眼を見て負傷した龍たちが慌てて後を追う。


「皆さん、見ての通り千眼の円環はあんなものです。もう少し数は増えるかもしれませんが、水龍だと言って怯える事はありません。いいですね?」


 千尋が振り向いて味方の龍たちに言うと、それを聞いた龍たちは何とも言えない顔をして曖昧に頷く。


「それはね、千尋くん。君だから言えるのであって、他の奴らからしたら水龍の円環は凄く怖いんだよ。にしてもあれをまさかここで使うとは思わなかったな。どう思う?」

「あれは切り札ではないという事でしょう。千眼が勝手にやった事なのか、それとも未だに謙信と結託しているのかは分かりませんが、どちらにしても彼らの切り札はもっと他にあるのではないでしょうか。それに数も少なすぎる。ところで、何故私は今日呼ばれたのでしょう?」


 これぐらいの戦闘であれば流星の軍でも余裕だったはずだ。そんな事を考えながら流星を見ると、流星は肩を竦めて言った。


「今研修中なんだよ。新人に見せるのにちょうど良いかなって」

「つまり、私を利用したという事ですか?」

「そこまで大げさな話じゃなくて、ちょっと手本を見せてやりたかっただけだってば!」

「全く。それならもっと他に適任が居たでしょう? 言っておきますが、私の本職は事務です。戦闘の見本になる訳がないでしょう?」

「……いや、自分の事そう思ってるの君だけだからさ。あと事務って言う割には皆、君に怯えてるから」


 この事はこれで片付いた。そう思ったのも束の間、あちらはそれからほぼ毎週同じことを繰り返した。


 けれど今はまだ捕まえる事は出来ない。


「もしかしたら、こちらの事情をある程度は察してるのかもね」


 夜、羽鳥がチクチクと縫い物をしながら静かに言った。


「かもしれません。ですが、それが鈴さんの出産に合わせているとは思っても居ないでしょう。地上を執拗に攻撃しようとするのは、まだ都に仲間が残っているからと考えるのが妥当でしょうね」

「王が退陣するまで謙信や千眼が都に手を出せない。それに対する牽制でもあるのかもしれないね」

「でも、ぎりぎりまで粘って都に残ってる高官ってのは一体何がしたいんだ?」


 羽鳥の器用に動く手を見つめながら息吹が言うと、羽鳥は少しだけ間を置いて答えた。


「こちらの手の内が知りたい。もしくは何か重要な情報を手に入れたい。恐らくそんな所じゃないかな。でもそれは今更無駄だよ。全ての高官に今、僕の耳と目が張り付いてる」

「仲間にもか?」

「もちろん。君たちにもついてるよ」

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