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第354話

「良い事だと思います。刑罰のままでは悪しき龍が地上に下りたらとんでもない事になると千尋さまは考えたようです。龍神になるには厳しい試験と訓練があるそうですよ」

「なるほど。でも千尋さまの後に龍神をするのは少し気が引けますね」

「それはそうかもしれません」

 千尋は自分にも他人にも厳しい人だ。品行方正すぎた千尋の後釜にやってくる龍神は、それはもう気が重いだろう。

「何だか都は着々と準備が進んでいる気がしますね」

「準備ですか?」

「はい。鈴さんを迎える準備です。千尋さまは他の方には相当に厳しいですが、あなたにだけは驚くほど甘いですから」


 おかしそうにそんな事を言う喜兵衛に鈴は思わず俯いてしまった。自惚れる訳ではないが、確かに千尋はそういう所がある。


 そういう時は申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが混ざって忙しい鈴だ。


 そんなある日の事、鈴が庭で洗濯物を干している時だった。空に音のない稲妻が沢山走った。それを見た鈴は咄嗟に袂から千尋から預かった懐剣を取り出して構えたのだが、その一度きりでその後にはまるで何事もなかったかのように空は青空に戻った。


 鈴はバクバクする心臓を抑えながら急いで洗濯物を持って屋敷に戻ると、今しがた起きた事を雅達に報告した。


「――と、いう訳なんです。あれは何だったのでしょう?」

「音のない稲妻? それはどっちに向かって走った?」

「えっと、縦横無尽に、という感じでした」


 楽の質問に鈴が答えると、楽は深く頷く。


「何か分かったのかい?」

「いや、もしかしたら千尋さまか千眼さまの円環かなって」

「円環?」

「ああ。お前は見たんじゃないか? 水龍が出す矢の輪だよ」

「ああ! えっ!? あ、あれが発動したのですか!?」

「もしくは大量の龍同士がやりあったか、かな」

「大量の龍同士が……」


 やはり今も地上は狙われているのだ。鈴は持っていた懐剣を握りしめた。


 千尋だろうか? それは分からないけれど、無事で居て欲しい。どうか危ないことはしないで欲しい。


 思わず俯いた鈴の肩を雅が慰めるようにさすってくれた。


「大丈夫だよ。罠にでもかけられない限り、千尋は大丈夫。あんたも知ってるだろ? 千尋の性格の悪さを」

「そ、それは今はあまり関係ないのでは?」


 引きつった鈴を見て雅が笑う。そんな雅を見てとうとう鈴も笑ってしまった。


 空に音のない稲妻はそれからも頻繁に起こり、とうとう近所の人たちまでもがその事に気づいたようだと、買い物に行っていた弥七と楽が教えてくれた。


「困ったね。天変地異の前触れだとか何とか騒いでるらしいよ」

「天変地異、ですか。昨夜遅くに辰巳さまから連絡があったのは、その事だったのですか?」


 洗い物をしながら鈴が問うと、雅はコクリと頷く。


「千尋が龍神じゃなくなった途端にこれだろ? だから余計に皆心配なんだろうさ。でもこれを起こしてるのがまさに龍だからねぇ」

「皆さん、心配ですよね……」


 鈴がぽつりと言うと、雅は苦笑いを浮かべて頷く。


「あたし達は原因が分かってるからまだいいけど、ほとんどの地上の生き物は何も知らないんだ。そりゃ天変地異の前触れだと思うだろうさ」


 洗い物を済ませて部屋に戻った鈴は、かけてあって千尋の羽織を抱きしめて目を閉じた。


「千尋さま、どうかお気をつけて。あまり無理はしないでくださいね……」


 耳を澄ませると今もどこからか千尋のバイオリンが聞こえてくるような気がする。


 幻聴のバイオリンに合わせて鈴が歌い始めると、それまでお腹の中をグルグル動き回っていた子がピタリと止まり、まるで鈴と一緒になって耳を澄ませているかのようだ。


「あなたも早くdadに会いたい?」


 鈴がお腹をさすりながら問いかけると、お腹の中から元気な返事が返ってくる。


 鈴はその事を手紙に書いて、泣き出してしまいそうになるのを堪えながら、羽鳥に貰った千尋人形を抱きしめて眠った。


 そしていよいよ、その日はやってきた。


 鈴の臨月に入り、皆がいよいよお産の準備をし始めた頃、何となく夜中にお腹がしくしくするような気がして目が覚めた鈴は、そっとお腹をさすってみた。すると今までよりも強い胎動を感じる。


「もしかして……もう出たいの?」


 何気なく呟く鈴に応えるかのように、いっそう痛みは強くなった。鈴はそれを感じて急いで廊下に出ると、まだ部屋に戻ってきていなかった雅を探して回る。


 痛みには波があり、まるでお腹を酷く下した時のような痛みだ。それでも鈴は痛みには大分慣れているし、最近ではあの千尋がくれた仙丹のおかげでどこも痛みは無かった。だからかもしれない。久しぶりの冷や汗が出るような痛みに、鈴はとうとう廊下で座り込んでしまう。


 そんな鈴を見つけたのは、お風呂上がりの楽だった。


 廊下の壁に凭れてぐったりと座り込んでいる鈴を見つけるなり、物凄い速さで駆け寄ってきて鈴を抱き起こす。


「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!」

「楽……さん」

「どうした? 何があった?」

「い、痛いん……です……お腹、張って、くるし……」


 そこまで言うと、楽は驚いたように目を見開き、屋敷中に響き渡りそうな大声で叫んだ。


「大変だ! 誰かー! おーい! 鈴が産気づいた! 早くおばさん呼んで!! それから千尋さまにも連絡して!!!!」


 その叫び声を聞きつけて夜食を漁りに行っていたのか、どこからともなく猫雅が鰹節を咥えて走ってきた。


「楽、鈴を部屋まで運んでやってくれ。あたしは千尋に電報打ってくる!」

「うん!」


 そこへ弥七と喜兵衛も駆けつけてきた。そして楽に抱かれてぐったりとしている鈴を見て青ざめている。


「弥七! あんたはすぐにマチ呼んどいで! それから喜兵衛は……喜兵衛は……鈴、何か食べるかい?」

「む、無理、です」

「だよな。それじゃあ喜兵衛はあたし達の夜食の準備でもしといてくれ。はい、これ鰹節」


 せっかくどこからか見つけてきた鰹節を喜兵衛に渡すと、雅はそのまま駆けていく。そんな雅の後を追うように弥七も慌てて走り去ってしまった。


「……齧った跡……」


 喜兵衛が今しがた渡された鰹節を見てポツリと呟いたのがおかしくて、思わず鈴は引きつりながら笑ってしまった。


「笑える余裕があるんならまだ大丈夫そうだな。部屋まで運ぶぞ」

「は、い。ありがとう、ございます――いたた」


 お腹が痛いのか腰が痛いのかよく分からなくて鈴が顔を顰めると、楽はそんな鈴を見下ろして不安そうな顔をしている。


「なぁ、本当に大丈夫かよ? お前、こんなちっさいのに……」


 何だか既に泣きそうな顔をしている楽を見て鈴は苦笑いを浮かべた。心配してくれているのは嬉しいが、まだ何も起こっていないのだからそんな顔はしないで欲しい。


 鈴は楽の手にそっと自分の手を置くと、楽を見上げてコクリと力強く頷いて見せた。それを見て楽はようやく少しだけホッとしたような顔をしている。


 いよいよだ。ようやく会えるのだ。あの時夢に見たあの子に。

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