「さっぱり読めませんねぇ」
「全くだ。でも鈴は何だか生き生きしてるよ」
「これ、私がよく父に読んでもらっていたお話が載っています!」
「どんなお話ですか?」
「三匹の豚のお話なんです。懐かしい……」
背表紙をそっと撫でると、何だかあの頃の記憶がありありと蘇ってくる。
「ではそれは私からプレゼントさせてください、鈴さん」
鈴がいつまでも本を離さないからか千尋がそんな提案をしてくれたけれど、すぐさま鈴はそれを断った。
「いえ! 大丈夫です。これは子供向けですし、私は今日は恋愛小説を見に来たのですから。すみません、何だか懐かしくてつい感傷に浸ってしまいました」
「感傷に浸るのは悪いことではありませんよ。たまにはご両親を思い出してあげてください。雅」
「はいよ。ほら鈴、それ貸しな。他には無いのかい?」
「え? えっと、その……本当に……いいんですか?」
「当たり前じゃないか! 言ったろ? 千尋はこう見えても侯爵なんだよ。鉛筆は何が何でも自分で買うって言うから目を瞑ったけど、ここは千尋を立てると思って甘えな」
「わ、分かりました。千尋さま、ありがとうございます。大切にします」
「ええ。そうしてくれるのが一番嬉しいです」
そう言って千尋はにっこりと微笑んだ。
本当に千尋は優しい。鈴はこんなにも優しい男の人を知らない。父も優しかったが、母と居る時と鈴と居る時では全然違った。だから何だか優しい男性というのが鈴には不思議だった。
それからも本屋であれこれと選び、結局鈴は3冊も千尋に本を買ってもらった。
「千尋さま、本当にありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして。面白いと良いですね」
「はい」
「本なんて何が楽しいんだろうねぇ。あたしには全然分からないよ」
胸に大事に本を抱える鈴を見て雅が言うので、鈴は少しだけ前のめりになって言い返す。
「本は自分では体験出来ない事が書いてあって面白いんです。普通は人生は一度きりですが、主人公になったつもりで本を読めば、それだけ沢山の人生が送れたみたいな気がして得した気持ちになるんです」
「へ、へぇ。あんたが今までどれだけ本を我慢してきたかって事はよく分かったよ。で、文字を覚えたからにはこれから沢山読むんだろ?」
「読めればいいな、と思っています」
小さく笑った鈴を見て千尋と雅が顔を見合わせているのを見てしまい、鈴はそれを見なかった振りをした。もしかしたらもうすぐ神森家を出なければいけないかもしれないのだ。あまり期待しすぎてはいけない。むしろ、もう十分すぎる程良くしてもらった。
鈴は本を抱え直すと、背筋を伸ばして顔を上げた。せめて千尋に恥をかかせないように、と。
「ここだよ! 仲間内から聞いたから間違いないはずだ!」
そう言って雅が一軒のフルーツパーラーの前で足を止めた。その顔は早く入りたくて仕方がないようで、見るからにウズウズしている。
「雅さん、千尋さまが来てからですよ」
「分かってるよ。しかしあいつ、こんな所でも協調性が全くないんだから!」
今、店の前には雅と鈴しか居ない。理由は簡単だ。ここに来る途中、千尋は何かを見つけたようで先に二人で店に向かってくれと言われたのだ。
「千尋さまも久しぶりの街を楽しんでらっしゃるんですよ、きっと」
「そうかねぇ? ったく、今日はあんたの為に来たってのに!」
鈴の為にそんな風に言ってくれるのが嬉しくて思わず笑ってしまった鈴の耳に、ここには絶対に居ないはずの人の声が飛び込んできて思わず鈴は体を強張らせた。
「鈴? あんた、こんな所で何してるの?」
ゆっくりと振り返ると、そこには菫が立っている。唖然とした様子で鈴をじっと見つめ何か口を開きかけた所に、今度は蘭の声が聞こえてきた。
「菫、あなたどうしてそんなに歩くのが早いの? そんなガサツだから学校でも……鈴ちゃん? 嘘でしょ! 鈴ちゃんよね!?」
「……菫ちゃん、蘭ちゃん」
胸に抱えていた本が小刻みに震える。それは指先が震えているからなのだと気付くのにさほどの時間はいらなかった。
「あんた、こんな所で何してんの!? 何て格好してんのよ!」
「ご、ごめんなさい」
菫は物凄い形相で鈴に近寄ってきたかと思うと、何を思ったか自分が被っていた帽子を鈴に被せてきた。
「みっともない!」
「う、うん」
菫に言われて鈴がそれに従おうとすると、おもむろにその手を雅に掴まれた。
「聞き捨てならないね。鈴は今、神森家で預かる大事な嫁候補だよ。みっともないはないんじゃないのかい?」
「あ、あんた誰よ」
「あたしは神森家に仕えてる者だよ。鈴にこの格好をさせたのは当主だ。当主の断り無しに変えさせる訳にはいかないね。鈴、帽子は返しな」
「は、はい。えっと……菫ちゃん、これ……」
おずおずと鈴が帽子を菫に差し出すと、菫はそれを引ったくるように受け取って鈴に言う。
「せいぜい気に入られるように頑張りなさいよ。あんたが帰ってくる所なんてもう無いんだからね」
「……うん」
「菫ちゃん、どうしてあなたはそんな言い方しか出来ないの? ごめんね、鈴ちゃん。菫ちゃんは悪気があってこんな事を言ってる訳じゃないの。許してやってちょうだいね」
「それはもちろん……分かってるよ」
菫の口が悪いのも気性が荒いのもよく知っている。今だって多分、鈴の髪を隠してくれようとしたのだ。そう思いたい。
思わず涙を浮かべた鈴を見て蘭がハンカチを差し出してきた。
「これ使って頂戴。素敵なお洋服ね。それ、どうしたの?」
「あ、千尋さま……旦那様が買ってくださって……」
鈴が答えると蘭は物凄い笑顔で手を叩いて喜んだ。
「そうなの! それは良いわね。旦那さまはお優しい?」
「うん、凄く……優しい」
「良かったわね、良縁だったのね! 神森様は年齢が随分上でらっしゃるから私達には不釣り合いだなんてお母様は仰っていたけれど、全然そんな事は無かったみたいで安心したわ」
「蘭、もう行くわよ」
菫は蘭を睨みつけてその手を引っ張ろうとしたが、蘭はどうやらそこから動く気はないようだった。
「もう少しだけ構わないでしょう?」
「えっと……」
どうすればいいのか分からなくて思わず雅に助けを求めたが、雅は菫に威嚇するのに忙しくて鈴に気づいてくれない。その時だ。
「おや、まだ入っていなかったのですか? 二人共」
「千尋!」
「千尋さま!」
菫と蘭の後ろから優雅な足取りで千尋がやってきた。
鈴と雅の言葉に菫も蘭もゆっくりと振り返って千尋を見るなり息を呑む。
「こちらの方々はお知り合いですか?」
「あ、はい。蘭ちゃんと菫ちゃんです」
「ああ、あなた達が。鈴さんからよくお話は伺っていますよ」
「……」
「……」
蘭も菫も千尋を見上げてまるで石になったかのように動かない。そんな二人を見て雅が意地悪に笑った。
「神森家の当主は随分年上だから、あんた達じゃ相手にならなかっただろうねぇ?」
「み、雅さん! そんな事はありません。蘭ちゃんも菫ちゃんも私なんかよりもずっと賢くて凄いんですよ」
「ふぅん?」