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第26話

 鈴が素直に答えると、千尋はキョトンとした顔をしている。


「そんな物でいいのですか?」

「はい」


 自由に買い物に出ることが出来ない鈴は、鉛筆を誰かに頼もうにも普段の買い物に行くような場所に鉛筆があるのかどうかが分からなくて頼む事が出来なかった。


 結局チビた鉛筆はもう持つ場所がほとんど無いのである。


「あんた、早く言いなよ! だからあんなちっさいの使ってたのか!」

「そうなんです」

「雅は気づいていたのですか?」

「そりゃ気付くさ! こーんなちっちゃいの使ってたんだから! 持ち運ぶのに便利だとかそんな理由で使ってるんだと思ってたよ!」


 そう言って雅は指で鈴が持っている鉛筆の長さを表すと、それを見て弥七も千尋も驚いたような顔をしている。


「俺のやろうか?」

「いえ、まだ頑張れば書けるので大丈夫です。千尋さま、明日のお買い物で鉛筆を見に行ってもいいですか?」

「プレゼントしますよ?」

「いえ、自分で使う物なので。それにどこに売ってるのかを見ておきたいんです」


 鈴の言葉に千尋は困ったように笑って頷いた。


「分かりました。では文房具屋にも寄りましょう。雅、お願いできますか?」

「分かった。文房具屋ね。それから本屋だろ? で、フルーツパーラーか。うん、良い買い物になりそうだ!」


 既にワクワクしている雅を見て現金なものだと思われるかもしれないが、何だか鈴まで楽しみになってきた。


「他に見たい物は無いのかい?」

「そうですね……あまり思い当たらないです」

「鈴さんは物欲がないのですねぇ。では街を散策しがてら色々見て回りましょうか」

「はい」


 何が欲しいとか何が見たいとか、自分でも分からないほど鈴は世間にも自分にも疎い。だからまずは自分の興味の対象を探す方が先なのだろう、きっと。



 千尋は昨夜、鈴の体調が優れないと言うので久しぶりに夕食を一人で食べる事になったのだが、何だかいつもよりも味気ない気がした。


 龍の都に居た時も地上に下りてからも誰かと夕食を取るという事の方が珍しかったというのに、不思議なことだ。


 そもそも、どうして鈴と食事を取るようになったのだったか。


 千尋はそんな事を考えながら、全国から届く土地に関する報告書に目を通していた。


「ああ、そうだ。雅が言い出したのでしたか」


 鈴が来てすぐ、雅が言ったのだ。「たまには嫁候補と食事でもしてみたらどうだい?」と。そして実際に鈴と食事をしたのだったか。


 元々食事などただの生命維持の為に食べていただけで、特別な思い入れも無かった千尋は、鈴と食事をした事で鈴の事を少しだけ知る事が出来たのだ。


「まさか箸が苦手だとは思いませんでしたが」


 ひとりごちて苦笑いを浮かべた千尋はさらに考えて表情を曇らせる。


 鈴は今年で確か16になったと言っていた。鈴の両親が亡くなって佐伯家に引き取られて既に8年だ。その間、鈴は字も習えなければ箸を持つ練習すらさせてもらえなかったという事になる。もっと言えば、鈴が神森家へやって来た時の状態を見る限り、もしかしたら箸を使うような食事をしていなかった可能性もあるのだ。


「……だとすれば、笑えませんね」


 箸が苦手だなんて、と笑っている場合ではない。それでも鈴は佐伯家の事を決して悪くは言わない。鈴の血の流れを見るに彼女は恐らく本当に佐伯家に恨みなど持っておらず、たまに思い出したかのように菫の話や蘭の話をしたりするぐらいだ。その時の鈴はいつもどこか泣きそうな、懐かしそうな顔をする。


「雅の言う通り、やはり彼女には金銭を渡して返した方が良いのかもしれません」


 とうとう書類を捌く手が止まってしまった。これではもう今日は仕事など出来そうにない。


 千尋は上着を羽織って時計を見た。もう朝だ。この時間なら普段の鈴は既に起き出して喜兵衛と共に朝食の支度をしているはずだ。


 千尋は伸びをして廊下に出ると、炊事場に向かって歩き出した。


 炊事場を覗くと案の定鈴はそこに居た。何やら喜兵衛と楽しそうに朝食の支度をしている。


 もしかしたら彼女は千尋の花嫁候補だという事を忘れているのではないだろうか? そう思う程度には喜兵衛や弥七、雅と仲が良い鈴だ。


「朝から元気ですね、二人共」


 千尋が声をかけると二人は同時に振り返ってそれぞれに挨拶をしてくる。


 千尋は二人に挨拶を返して鈴に近寄ると、顔を覗き込んで血の流れを確認して安堵した。昨夜は濁っていた血が今は清い川のように澄んでいる。


 少しだけ会話をして千尋が出ていこうとすると、鈴が声をかけてきた。


「あの! 千尋さま、昨夜もしかしたら私の所に来てくださいましたか?」

「何故です?」

「何となく、眠る前に千尋さまの声が聞こえたような気がして、それから凄く体が楽になったので、もしかしたらと思ったのですが……」

「おや、私の夢を見てくれたのですか? それは嬉しいですね」


 からかい混じりに言うと鈴は少しだけ頬を膨らませた。こんな風に反応を返してくれるようになったのはつい最近の事だ。


 鈴の言う通り、千尋は昨夜一度だけ鈴の様子を見に行った。そしてすぐさま鈴が薬を飲んだ事に気づいて鈴に力を流したのだ。その時既に鈴は夢現だったので、不安にさせてもいけないと思いつい軽口を叩いてしまったが、その後のやりとりで千尋は逃げるようにその場から立ち去ったのだった。


「やっと見つけた! あんた何だい? あの書類の山!」


 朝食を終えて腹ごなしがてら庭を歩いていると、恐ろしい剣幕の雅とばったり出くわしてしまった。


「ああ、雅。おはようございます」

「おはようございますじゃないんだよ! まさかとは思うけど、また寝てないんじゃないだろうね!?」

「あなたには隠し事が出来ませんねぇ」

「あのねぇ、あんた自分で思ってるよりもずっと年寄りなんだ。あんまり無茶ばっかりしてると鈴みたいにぶっ倒れるよ!」

「失礼な。私は龍族の中ではまだまだ若い方ですよ。でも心配してくれてるのは嬉しいですよ。ありがとうございます、雅」


 にこやかに千尋が言うと、怒りが削がれたのか雅は大きなため息を落として千尋の隣を歩き出した。


「それで、鈴さんの容態はどうです?」

「ああ、まぁいいんじゃないの?」

「ええ、それは知っています。そうではなくて、一体原因は何だったのです? 私が様子を見に行った時には既に血が濁っていましたが」


 何気なく千尋が言うと、途端に雅の顔が険しくなった。


「あんた、昨夜あの子の寝所に入り込んだのかい!?」

「ええ。もし何かあったら佐伯家に申し訳ないですから。何をそんなに怒っているのです? 私が誰かに手を出さないのはあなたが一番良く知っているでしょう?」

「良く知ってるからだよ! あんたが白羽の矢を立てるのはいつだってどうしようもない女ばっかりだったけど、今回は珍しくまともなのに当たっちまって……なぁ千尋、今からでも鈴を追い出せないか?」

「何故?」

「あんたがそんなだからだよ」

「私が?」


 雅の意図が分からなくて千尋が首を傾げると雅はコクリと頷いた。

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