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第5話

 炊事場に入ると、そこでは相変わらず狐の被り物を被った青年が既に調理を始めていた。


 昨夜この狐の被り物を見た時は怖いとさえ思ったけれど、明るい日の中で見たら何だか愛嬌があるような気がして少しだけ目の端を緩める。


「おはようございます」

「ん? ああ、おはようございます。どうかされましたか? お水でも汲みにきましたか?」


 青年は不思議そうに首を傾げながら鈴に問いかけてくる。


「いえ、お水は大丈夫です。何かお手伝いする事はありますか?」

「え!? お、お手伝い、ですか?」

「はい。家でもしていたので何かしていないと落ち着かないんです」


 突然の申し出に青年はキョトンとして答えた。


「千尋さまが選んだ家柄の方はそんな事はしないと思っていましたが、そうでもないのですね」

「その家庭によると思います。私は佐伯家で家事をしていたので。それに、最近の女学校では家事やお裁縫を習うそうです」

「なるほど、良妻賢母を育てるというやつですね。では卵を割っていただけますか?」

「分かりました。あの、一つ伺ってもいいですか?」

「はい?」

「調理中にその被り物……辛くないのですか?」


 ずっと気になっていた事を思い切って聞いてみた。するとそれを聞いた途端、青年はピタリと手を止めて後ずさる。そんな青年の様子を見て鈴は慌てて言った。


「あ、いえ! その、何か事情があるのでしたら別に答えなくてもいいです! その……不躾な質問をしてしまってすみません」


 思わず癖でいつものように青年に頭を下げた鈴に、今度は青年が慌てだした。


「いや! 頭を上げてください! 花嫁候補に頭を下げさせただなんて知られたら、すぐさまここを出る羽目になってしまいます!」

「え!? す、すみません!」

「ああ、だから頭を上げて! 後生ですから!」


 そうは言われても不躾で失礼な質問をしたのは自分の方だ。何よりも鈴は何かあるとすぐに謝る癖がすっかりついてしまっている。


 炊事場でいつまでも頭を下げ合う二人を一体いつから見ていたのか、入り口の方から小さな笑い声が聞こえてきた。振り返ると、そこには千尋が立っている。


「ち、千尋様!」

「千尋さま?」

「おはようございます、喜兵衛。それに鈴さんも。こんな所で何かの儀式ですか?」

「ちが、違うんです! その、私がこの方にとても失礼な質問をしてしまって、なのでその……」

「あ、いや自分がすぐに答えられなくて誤解をさせてしまっただけで、鈴さんは何も悪くはないのです!」


 二人の言い分を聞いて千尋は更におかしそうに目を細めると、おもむろに近寄ってきて言った。


「どうやらどちらも悪くはないようです。それで? 鈴さんはどんな質問をしたのです?」

「えっと、料理中にその被り物は辛くないのか、と……すみません」


 鈴の言葉を聞いて千尋はくつくつと笑った。


「何も謝ることはありません。喜兵衛は正真正銘狐です。これは被り物という訳ではないのですよ。そして雅は猫です。真っ黒な猫なのです」

「……え?」


 あまりにも唐突な千尋の言葉に今度は鈴が固まった。


 もしかしたらからかわれているのかとも思ったが、固まった鈴を見て喜兵衛が焦ったようにオロオロしている。そんな喜兵衛を無視して千尋は鈴の顔を覗き込んできてさらに続けた。


「おや? 信じませんか? ちなみに私はこの地を守る龍神です」

「りゅう……じんさま……?」

「ええ。驚きましたか?」

「……はい……とて……も……」


 鈴はどうにか言葉を発すると、あまりにも人間離れした千尋の美しさや神森家にまつわる怪しい噂の全てに合点がいったと同時に、その場であっさりと意識を失ってしまった。



「さて、どうしたものですかね」


 千尋が目の前でバタリと倒れてしまった鈴を抱き上げて言うと、喜兵衛が眉を吊り上げて早口で捲し立ててきた。


「どうしたものですかね、じゃありませんよ! 千尋様、本当に結婚する気があるんですか!? 前回の結婚からもう150年経つんですよ!?」

「もちろんありますよ。だからこうやって一人ずつ吟味しているではありませんか。それに遅かれ早かれこの家の事や私達の事は伝えなければなりません。違いますか?」

「それはそうですが……ですが! もう少し時と場所と場合を考えてもいいじゃないですか! 久しぶりに良い方がいらっしゃったのに!」


 その喜兵衛の言葉に千尋は小首を傾げた。


「おや、喜兵衛はそう思うのですか? この娘が良いと?」

「え? ええ、まぁ。ここへ手伝いに来た方は本当に久しぶりだったので」

「なるほど。彼女はここへ手伝いに来たのですか。喜兵衛、ありがとうございました。それから、たまには洋食を食べたいのですが」


 千尋はそう言って喜兵衛が用意している朝食を見てポツリと言うと、喜兵衛は即座に答えた。


「無理ですね。それは諦めてください。自分は和食しか作れません」

「……残念です。またどこか出かけた時ですね……」


 言いながら千尋は鈴を抱いたまま炊事場を出ると、鈴を部屋に運んだ。


 自室に戻るとそこには雅が既に喜兵衛に話を聞いたのか、怖い顔をして立っている。


「聞いたよ。あの子、目を回しちまったんだって?」

「本当の事を言っただけなんですけどね」

「本当の事だろうが何だろうが、来てすぐに話すような事じゃないと思うんだけどね?」

「手間を省こうかと思ったんですよ。いい加減まどろっこしいでしょう?」

「だからってあんた! はぁ、まぁ天界から追放された龍神さまの考える事なんて、一介の猫又には到底理解出来ないんだろうさ」

「雅」


 雅の言葉に千尋が冷笑を浮かべて言うと、雅は肩をすくめて猫の姿に戻った。


「はいはい、あたしが悪かったよ。それから長年人の側で暮らしていたあたしからあんたに一つ忠告だ。いつまでもそんな態度で人間と向き合ってたら、いつか手酷いしっぺ返しを食らう事になるよ。それから、時代も変わったんだ。たまには花嫁候補と食事でもしてみたらどうだい? 引きこもりの龍神さん」


 それだけ言って雅は千尋の次の言葉も待たずに部屋の窓から飛び出して行ってしまう。


「手酷いしっぺ返し、ですか。それはもう十分に味わいましたよ。嫌というほどね」


 自嘲気味に笑った千尋は、歴代の花嫁候補達を思い出していた。


 雅が言ったようにニコニコしてただ笑っているだけの娘たち。千尋が龍神だと知るなり媚を売ってくる者も居た。家柄が物を言う時代だ。その選択肢しか彼女たちには無かったのだろう。結局誰も決まらないまま150年も過ぎてしまった。


 送り返した花嫁候補達には悪いが、それが千尋の地上での仕事なのだ。



 鈴が二度目に目を覚ました時には陽はすっかり落ちていて、辺りはそろそろ薄暗くなっていた。


「……もしかして夢……だった?」


 朝に一度起きたと思ったが、もしかしたら思いの外自分は疲れていて今の今まで寝こけていたのだろうか? 

 そんな事を考えながら上体を起こすと、寝台の上にあの時の黒猫がちょこんとこちらを見上げて座っている。


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