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第3話

 さらに怖いのは戻ってきた娘たちは皆、何故か神森家で過ごした日々をすっかり忘れてしまっていたという。あまりにも誰も覚えていないのでその度に狐に化かされたのか、何かショックを起こすような事があったのかと話題になるのだが、家族がどれだけ訴えても警察は一向に動こうとはしなかった。


 それだけ聞けば相当おかしな家だが、何故か実際戻ってきた人たちは神森家の事を覚えていないにも関わらず、皆がもう一度あそこへ行きたいと言うのだそうだ。


 余裕を持って家を出たが、ようやく街を抜けた頃には辺りはすっかり薄暗くなっていた。人力車を降りると街灯の明かりだけが森に向かって伸びていく。


 その明かりを頼りに森の入り口に向かって歩いていたのだが、何だか森の入り口が騒がしい事に気付いて咄嗟に身を隠した。


 目を凝らしてみると森の入り口で数人が何やら頭を突き合わせて話している。その脇には時代錯誤も甚だしい豪華な女乗物が置いてあった。


 耳を澄ませると静かな夜景に男たちの声が聞こえてくる。


「次の花嫁は合格かな?」

「どうだろうなぁ。あの方はああ見えて厳しい人だから」

「そろそろ早く決めてもらわないと、いつまで経っても力を持つ子が生まれないぞ!」

「それは困る! あの方だって永遠にここに居られる訳じゃないのに! 誰がこの土地を守るんだ!」

「そうだそうだ! そもそも今どきこんなので輿入れってしてくるのかなぁ。これも絶対に気味悪がられてる原因だと思うんだけど」


 鈴は草陰に隠れてしばらくその話を聞いていたのだが、不意に後ろから誰かに足を叩かれた。


「ひっ!」


 あまりにも集中していた鈴が驚いて振り返ると、そこには一匹の黒猫がおすわりをしてこちらを見上げている。


「にゃぁ」

「あ……びっくりした……猫か……」


 ポツリと言って猫を抱き上げようと両手を伸ばしたけれど、生憎猫は鈴の手をひらりと避けて何を思ったか男たちの元へ駆けて行ってしまう。


 しばらくすると、一人の男がこちらに気づいて近寄ってきた。


 それに気づいて咄嗟に逃げなければと思い立ち上がって走り出そうとした所で――。


「待って! もしかして佐伯の所の娘さん、ですか?」

「!」


 その声を聞いて恐る恐る振り返ると、そこにはやたらとリアルな狐の被り物を被った青年が立っている。


 それを見て思わず悲鳴を飲み込んだ。あまりにもその被り物は精巧で、まるで本物の狐が二足歩行をしているかのようだ。


「そうです……けど」


 怪訝に思いながらも答えると、青年の声が嬉しそうに跳ねた。


「ああ、良かった! あ、挨拶が遅れて申し訳ありません。僕は神森家の使いの者です。どうぞこちらへ。神森家までご案内いたします」

「あ、ありがとうございます」


 何だかよく分からないし怖いけれど、どのみち鈴にはもう神森家に向かうしかない。


 鈴が覚悟を決めてゴクリ息を呑み、青年に付き従う形で時代遅れの女乗物に乗り込むと、目の前で引き戸が容赦なく閉じられた。


『これからどうなるんだろう。私もすぐに追い出されて記憶が無くなるのかな……もう佐伯家にも戻れないのに……』


 鈴は佐伯家が嫌いではなかった。母親の菊子からよく聞かされていた勇も、優秀で優しい蘭も、菫の嫌味だってもう聞けないかもしれないと思うと寂しい。ただ久子だけは本当に鈴を嫌っていた。あの事故の時だって――。


 鈴が上の空でそんな事を考えていると、女乗物が止まり外から威勢の良い女性の声が聞こえてくる。


「着いたよ。ようこそ神森家へ。今期70人目の花嫁候補さん」


 それと同時に女乗物の引き戸が開けられた。


 乗物の中から外を伺うと、眼の前に見たことも無いほど豪華なお屋敷が建っていた。洋風の見た目はモダンで、いつか蘭が見せてくれた鹿鳴館の写真とよく似ている。既に神森家の敷地内なのか、道にあった街灯とは比べ物にならないほど辺りは明るい。


「何してんだい? さっさと降りといでよ」

「あ、はい」


 何だかちゃきちゃきした人だなと思いながら恐る恐る乗物から降りて、顔を隠すために伸ばした前髪越しにチラリと女の人を盗み見ると、目の前にスラっとした艶やかな美女がこちらを見下ろして立っていた。


「あたしは雅だよ。って、こりゃ驚いた! あんた異人さん? さっきは全然気づかなかった!」

「あ……えっと私は……」


 鈴はしまった! と心の中で呟いて慌てて目を隠すように帽子を深く被りなおす。

 髪はいくらでも帽子で隠せるが、日本人離れした甘ったるい顔立ちや瞳の色はどうやっても隠せない。


 どれほど世間離れしている神森家でも、佐伯の家に居る娘の目が青磁色などとは思いもしていなかっただろう。


 だから勇はあれほど鈴に「こちらを見るな」と言ってきたのだ。あまりにも父に似すぎた鈴の姿が許せなかったに違いない。


 神森家は一度縁談を持ちかけた家には二度と声をかけない。そこにどれほど美しくて評判の娘が居ても、だ。


 だからこれでいい。どうせ断られる形だけの縁談だと久子も言っていた。その為に鈴はこの縁談を受けたのだ。世間体を気にする久子のため、お世話になった佐伯家に何か恩返しが出来ればそれでいい。


 そう思い直した鈴は静かに頭を下げた。


「申し訳ありません。私は蘭でも菫でもありません。佐伯家に居候させていただいている、鈴と申します」

「こりゃご丁寧にどうもね。で、どうして二人はこないんだい?」

「蘭は佐伯家を継がなければなりません。そして菫はまだ女学園に通う身です。なので私が自ら名乗り出たのです」

「なるほどねぇ。まぁ確かに世間様は随分様変わりしたもんねぇ。しかしこりゃ困ったね。あんたは佐伯とは円も縁も無い訳? 正真正銘ただの居候?」

「一応佐伯の当主とは叔父と姪の関係にありますが、叔父は婿養子で私に佐伯の血は流れてはいません……」


 すぐさま追い出されるのを覚悟で言うと、それを聞いて後ろで女乗物を担いでいた人たちが息を呑んだのが気配で分かった。


「なんだ。あんた佐伯の血は流れてないけど当主とは血が繋がってんだね。ここでは血がね、重要なんだ。それ以外は何もいらない。歴代の花嫁達は皆そう。人形みたいにニコニコ愛想よくしてればいいんだ」


 そう言ってふふんと鼻で笑った雅に思わず引きつると、お屋敷の奥から男の声が聞こえてきた。


「雅」


 たった一言なのに男の声はとても甘く優しげで、それなのに独特の艶のある声に鈴が身体を強張らせて視線を上げると、目に飛び込んできたのは濃紺色の長い髪に、明るい紫がかった青い目の儚げで端正な顔立ちの男だ。


「げ、千尋。居たのか」

「居たのか、ではありませんよ。鈴さん、ようこそいらっしゃいました。私が神森家の当主、神森千尋です。どうかよろしくお願いしますね」

「あ、はい。えっと……追い出さないん……ですか?」

「追い出す? まだ私はあなたの事を何も知りません。あなたも私の事を何も知らない。それなのにどうして追い出すのです?」

「だって、私……蘭ちゃんでも菫ちゃんでもないのに……」


 それだけ言って俯いた。そんな鈴を見て千尋は困ったように微笑む。

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