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第2話

 そこまで言って言葉を詰まらせた。思っていたよりも久子に受け入れてもらえていなかった事がショックだったようだ。


「そんな! 鈴ちゃんも家族なのに!」

「ありがとう、蘭ちゃん。そう言ってくれるだけで嬉しい」


 本当にその言葉が聞けただけで嬉しい。そんな言葉を飲み込んでまた零れそうになった涙を袖で拭う。


「とりあえずもう一度お母様達と話してくるわ」

「うん、ありがとう。蘭ちゃん、チョコレートケーキもありがとう」

「ええ。また何かお菓子を貰ったら持ってくるわね。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 そう言って、蘭は静かに母屋に帰って行った。


 鈴は布団に転がって天井を見上げ、さっき食べたチョコレートケーキを思い出して思わず微笑む。


 いつからだろう、蘭がこんなにも鈴の事を気にかけてくれるようになったのは。そのきっかけは何だったかはもう思い出せないけれど、この家の中で蘭だけが心の拠り所だった。



 翌日、目が覚めて蔵から出ると蔵の前に歪な卵焼きと鮭と昆布のおにぎりが手ぬぐいに包まれて置いてあった。この蔵で過ごすようになってからこの現象はほぼ毎朝続いている。


 最初は不思議に思っていたが、今はもう今日のおかずは何だろうかと思う程度には毎朝楽しみにしていた。こんな事をするのはきっと蘭だろう。


 朝食を蔵の中に一旦置いて、鈴はそのまま皆の朝食を作りに向かった。


 誰かは分からないが、鈴の為だけに毎朝こうやって朝食を作ってくれる人がいる。その事実こそ鈴がこの家の事を嫌いになれない理由だったのかもしれない。


 朝食を作り終えて後片付けをしていると、珍しく久子がやってきた。


「ちょっと。手を止めてこちらにいらっしゃい。話があります」

「……はい」


 内心「きた」と思っていた。久子がこのタイミングで鈴に話など、あの話しかない。


 言われるがまま久子についていくと、久子は勇の部屋に案内してそのまま立ち去ってしまう。


「鈴、座りなさい」

「はい」


 着物の裾に気をつけながら勇の正面に座ると、じっと勇を見上げた。途端に勇は鈴から目を逸らせる。


「こちらを向くなといつも言ってるだろう」

「ご、ごめんなさい」


 突然の勇の声に慌てて視線を伏せると、そんな鈴に安心したように勇は話しだした。


「鈴、お前に縁談が来ている。蘭と菫の代わりに嫁ぎなさい。先方はこの屋敷に居る娘とだけ言ってきた。お前には勿体ない話だが、蘭はこの家の跡継ぎで菫もまだ女学校に通っている最中だ。昔ならいざしらず、今は女でも学はある方がいい」

「はい」

「つまり、この家から今その縁談を受ける事が出来るのはお前しか居ない。分かるな?」

「……はい」


 思わず小声になってしまった鈴の耳に、勇の声が聞こえてくる。


「はぁ、本当にお前は菊子にそっくりだな」

「……」


 菊子というのは鈴の母親の名前だ。勇は菊子がイギリス人だった父とほぼ駆け落ち同然で家を飛び出した事を、未だに怒っている。


「まぁいい。そんな訳だからお前は今日中に荷物をまとめておけ。あちらはしばらくお前の身柄を預かりたいと言ってきている」

「え?」

「なんだ? 何か問題があるのか?」

「い、いえ」


 縁談とは言えまだ顔合わせもしていないのにしばらく身柄を預かるだなんて聞いた事がない。


 驚いて思わず顔を上げると、勇と目があった途端また逸らされてしまった。


「婚前の娘の身柄を預かりたいなどと普通の神経では考えられんが、相手はあの神森家だ。何を言われようとも特別驚くこともないだろう」

「神……森、家……」


 鈴にまわしてくるような縁談なのだからあまり大きな家柄ではないだろうと思っていたのだが、神森家は侯爵家だ。


 けれど、それを差し引いてもお釣りが来そうなほど曰く付きの家柄でもあった。


「何か不服か? お前には丁度良いだろう?」

「……はい」


 きっと勇は鈴の容姿の事を言っているのだろうと察した鈴は、ただその決定に従う他なかった。


 呆然としたまま廊下に出ると、そこには菫が大きな目をこちらに向けて、ほとんど睨みつけるように鈴を見ている。


「おはよう、菫ちゃん」

「ふん、あんたが居なくなったらせいせいするわね。やっとこの家も元通りだわ!」

「うん……今までごめんね。ありがとう」

「ほんとよ。あんたが居なくなったらあんな蔵さっさと潰して私の部屋にするんだから! 荷物ちゃんと全部忘れず持って行きなさいよね!」


 そう言って菫は鼻を鳴らしてドカドカと廊下を歩き去ってしまう。そんな後ろ姿をしばらく見送って少しだけ俯いて鼻をすする。


 昔は今ほど仲が悪かった訳ではないような気がするけれど、最近の菫はこうやっていつも突っかかってくる。別に意地悪をされる訳ではないけれど、菫の意図が分からなくていつも戸惑ってしまう。


 けれど菫の態度などまだマシだ。間違いなくこの家の中で誰よりも鈴を嫌っているのは久子だから。


 何故そこまで久子が鈴を嫌うのか、その理由はこの時はまだ知らなかった――。



 翌朝、いつものように朝食だけを作り、身の回りの荷物を風呂敷にまとめて勇から受け取った衣装に着替えて蔵を出ると、いつの間に置かれたのか蔵の前にいつもの風呂敷を見つけた。


 風呂敷の中には三角とも俵とも言えない鈴の大好物の梅とおかかのおにぎりがいつもよりも多く入っている。


 見かけはいつも不格好だが、このおにぎりが涙が溢れるほど美味しい事をもう知っていた鈴は、それを胸に抱きしめて蔵へ戻ると机の上に今までの朝食のお礼に折り鶴を残して家を後にした。


 出る前に母屋に寄って声をかけたが、誰からも返事は返ってこない。蘭は今日は学友と朝から出掛けているし、菫は頭痛が酷いと言って部屋で休んでいる。勇と久子は言わずもがなだ。


 万が一神森家に追い出されても、鈴がもうここへ戻る事はないだろう。鈴はこの家にとって厄災の種であり厄介者でしか無かったのだから。


 久子はもしも鈴が追い出されたら一生蔵に閉じ込めると言っていたが、これ以上手を煩わせるのは嫌だ。その時は潔く一人でどこかで生きていこうと鈴は心に誓った。



 神森家との約束の時間にはまだかなり余裕があった。神森家は鈴の為にわざわざ家まで迎えを寄越すと言ってくれたけれど、鈴はそれを丁重に断った。道中一人になる時間が欲しかったのだ。


 鈴は一人きりで家を出て、その特徴的な髪と目を隠すために帽子を目深に被り乗合バスに乗った。


 神森家は街の中心から外れた山の中にあった。山の入口までは乗合バスと人力車を乗り継ぎ、そこからは神森家の人が送ってくれるという。


 生まれて初めて乗ったバスからぼんやりと景色を眺めていると、このままどこかへふらりと行ってしまいたいような衝動に駆られたが、先立つものが何も無い小娘がそんな事出来るはずもない。


「……神森家……どんな所なんだろう……」


 神森家は巷でも噂の変わった家だった。家柄こそ侯爵家という身分で華やかだが、今までに何人もの人たちと縁談をしたにも関わらず、そのどれも一方的に破談にしてきた家だった。

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