空には今も龍神が住んでいる。小さな箱庭の中で、愛する少女と共に。
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鈴は今年で16歳になった。幼い頃は両親と共に海外に住んでいたが、8歳の時に父を戦争で亡くし、同じ年に母を結核で亡くしてしまった為、その後たった一人で日本に戻って叔父の勇と、その妻の久子夫婦の所で世話になっている。
鈴が世話になっている佐伯家は代々続く女系の家系で伯爵の爵位を持っていた。勇はそこに婿養子という形で入ったのだと母から聞いていた。
そのため今の当主は実質久子のようなものだ。大きな屋敷は純和風の家屋で庭には大きな蔵があり、そこが鈴の部屋だった。
叔父夫婦には二人の娘がいる。名前は蘭と菫という。蘭は鈴より1つ上で、菫は同い年だ。
蘭は高等女学校では常に成績優秀で教師や友人達からも一目置かれる存在だったそうだ。このまま進学をするかどうか随分悩んでいたが、結局進学を取りやめて自分の夢に向かって邁進する道を選んだ。その夢を鈴には教えてはくれなかったけれど、蘭はとても優秀だ。きっとその夢を叶えるだろう。
一方の菫は何とか実科高等女学校に入りはしたものの、久子の話では蘭ほど優秀ではないようだった。それでも学校に通えるだけで凄い時代だ。こんな二人が鈴の唯一の自慢だった。
ある日の事。鈴がいつものように庭仕事をしていると、勇の部屋からこんな声が聞こえてきた。
「絶対に嫌よ! 娘をあんな得体の知れない所へ嫁がせるなんて!」
「こら、そんな大きな声で」
「私は反対よ。ええ、ええ、大反対です! あんな気味の悪い家と繋がりを持つなんてゾッとするわ!」
「それじゃあ断るのか?」
勇の声に叔母の声が一瞬途切れた。続いてさっきとは打って変わって明るい声が聞こえてくる。
会話の内容が気になった鈴は、いけないと思いながらも手を止めてこっそりと縁側から勇の部屋の中を覗き込む。
「こちらから断るのは世間体が悪いし……そうだわ! あの娘に行かせるのはどうかしら?」
「……鈴か?」
勇が怪訝な顔で聞き返すと、久子は嬉しそうに頷く。
「しかし鈴は佐伯の者ではないんだぞ? 俺の姪だ。的場の者なんだぞ?」
「あちらの条件は佐伯家に居る娘ですもの。問題はないはずよ。どうせ形だけでの縁談よ。でも形だけとは言え、もしもあの子があちらの家から追い出されたらもう恥ずかしくて外には出せないわ。その時は仕方がないから一生蔵に閉じ込めてしまうかしかないわね。それこそ、死ぬまで」
そう言って久子はほくそ笑んだ。
鈴はそこまで聞いてそっとその場から離れた。久子に好かれているとは思っていなかったが、その先を実際に聞いてしまうときっと傷ついてしまう。いっそ外に放り出してくれた方が気が楽だ。
鈴はそのまま逃げるように調理場に向かい、いつものように淡々と皆の分の料理を作る。そしてその残り物で自分の夕食におにぎりを1つ、漬物を三切れだけ持って蔵に戻った。
元々は鈴も母屋に住んでいたが、ある事件をきっかけに鈴は母屋に上がることすら許されなくなってしまった。
けれど今はそれで良かったと思っている。ここに居ればヒステリックに鈴の事で怒鳴る久子の声も聞こえてこない。
蔵に戻ってしばらくすると、いつも蔵には外から鍵がかけられもう朝までここからは出られない。食事は冷たい土の上だ。風呂は調理前に裏の井戸で済ませた。
佐伯家へ来てからというもの、鈴は敷地内から一歩も外へ出た事はなかった。鈴を外の人に見られる事を久子が酷く嫌がったからだ。
夕食を早々に食べ終えると、蝋燭の火を頼りに一人静かに挿絵の多い本を眺めていた。そこに控えめなノックの音が聞こえてくる。
「鈴ちゃん、まだ起きている?」
「蘭ちゃん?」
「ええ。今日ね、学校でお菓子をいただいたの。一緒に食べましょう」
「……ありがとう」
この家でこんな風に鈴の事を気にかけてくれるのは蘭だけだ。
涙が零れそうになるのを袖で拭っていると、蔵の鍵が開けられた。すると、そこにはすっかりラフな格好に着替えた蘭が両手に盆を持ってにこやかな笑顔で立っている。
「入ってもいい?」
「もちろん。狭いけど……」
「そんな事ないわ。人が一人住むには十分な広さよ。そうだ! いっそ私のお部屋と交換しない? 私、暗くて狭い所って落ち着くから好きなのよ。押入れとかお手洗いとか」
そう言って冗談めかして笑う蘭を見て思わず笑ってしまった。
「もう、蘭ちゃんってば」
鈴は蘭を蔵の中に招くと、蝋燭をもう一本点けた。
「まだ蝋燭なの? お母様ったら、何度言ったらここに電気を入れてくれるのかしら!」
憤慨した様子でそんな事を言う蘭に、鈴は慌てて両手を振った。
「いいんだよ、私は蝋燭で。それに蝋燭の火ってずっと見てると心が落ち着くの」
「それは確かにそうかもしれないわね。火は人間の心を落ち着ける作用があるって、何かの本で読んだ事があるわ。はい、これ。お茶も持ってきたわよ」
「ありがとう。これはもしかしてチョコレートケーキ?」
蘭が持ってきたのは幼い頃に何度か食べた事があるチョコレートケーキだ。
「ええ、やっぱり知ってたのね」
「うん。懐かしい」
久しぶりに見るチョコレートケーキに思わず目を細めると、蘭は花が咲いたように微笑んだ。
「喜んでもらえて良かった! でも菫ちゃんやお母様たちには内緒よ?」
そう言って蘭は唇に人差し指を当てて笑うと、チョコレートケーキを2つに切り分ける。
「さあ、食べましょう!」
「で、でも菫ちゃんは食べてないんでしょ?」
「ええ。あの子とはもう一週間も口を利いていないの」
「……また喧嘩したの?」
「ええ、まぁね。それよりもほら! 食べましょう!」
「うん、ありがとう。いただきます」
蘭に手渡されたフォークでチョコレートケーキをそっと刺すと、記憶にあったケーキよりもフワフワで思わず目を見開いてしまった。
しばらく二人で今しがた食べたケーキの話をしていたが、不意に蘭が真顔になって言った。
「ところで鈴ちゃん、うちに縁談のお話が来ているのを知ってる?」
「……うん。夕方、叔父さまと叔母さんが話してるのを聞いちゃった」
「そう。あれね、もしかしたら私が行くことになるかもしれないわ」
「え!? ど、どうして?」
「お夕飯の時に、お母様と父さまにその話をされたの。もちろん菫ちゃんは嫌がってたわ。だとすれば、残るは私しか居ないでしょう?」
そう言って視線を伏せた蘭を見て思わず机に乗り出していた。
「わ、私が行く! 蘭ちゃんは夢を諦めないで!」
「え? で、でもあなたは……」
あまりの勢いに蘭は驚いたように目を丸くすると、じっと鈴の目を見つめてくる。
「私はこんな容姿だし蘭ちゃんの代わりにも菫ちゃんの代わりにもなれないけど、叔母さん達もそうするつもりみたいだったし……」