「もちろんです! では明日はパンを焼きましょう!」
「パンをここで焼くのですか!? 買ってくるのではなく!?」
「はい! 焼き立てを是非食べて欲しいので」
そう言って鈴はいつも持ち歩いているメモ用紙にパンの材料を素早く書きつける。
「そのメモ貸してください。今日は買い物に出るのでついでに買ってきます」
「いいんですか? あ、でも清書してもいいですか?」
走り書きすぎてあまりにも汚いし、何よりも相変わらず英語で書いてしまった鈴に喜兵衛が笑って頷き、二人でいつものように朝食の支度を始めた。
「では、明日の朝食は洋食なんですね」
さっき喜兵衛と決めた明日の朝食の話をすると、千尋は味噌汁のお椀を持ちながら顔を輝かせた。
「はい。何かリクエストはありますか?」
「そうですね。幼い頃あなたがよく食べていた朝食がいいです」
「そんなのでいいんですか? あ、いえ、そんな大層な物は元々作れませんが」
「もちろんです。それに私からしたら料理が作れるという時点で十分大層な事ですよ」
そう言って微笑む千尋に鈴も笑みを浮かべて頷いた。それからしばらく二人で取り留めもない話をしながら朝食をとっていたが、ふと千尋が口を開いた。
「ところで明日にでも街に行こうかと思うのですが、ご都合はどうですか?」
「明日ですか? 私はいつでも大丈夫ですが、その……本当に行くんですか?」
「ええ。いけませんか?」
「いけないなんて事はありませんが、その……本当の本当に?」
「疑り深いですね。本当の本当です」
もうこれは決定だと言わんばかりの千尋に鈴はゆっくりと頷いた。
「分かりました。でもその、私が何か粗相をしたらすぐに言ってくださいね。自分でも気づかない事もあると思うので」
「ええ。とは言え私の方が雅に叱られそうですけどね」
苦笑いを浮かべながらそんな事を言う千尋を見て一気に不安になってくる。何せ街にあまり出ない千尋と鈴だ。これはもしかしたら雅に相当迷惑がかかるのではないだろうか。
「私、頑張ります!」
「ただの買い物ですよ?」
「そうなんですけど、でも、頑張ります!」
「頑張るのはいいですが、無理はしないでくださいね」
「はい」
無理をしたら返って迷惑をかける事を鈴はよく知っているが、千尋と雅に迷惑だけはかけないようにしたい。
朝食を終えて自室に戻った鈴は、少しだけ休憩をして庭に出た。今はもうすっかり慣れた神森家の庭は、今日も綺麗にあちこちで花が咲き乱れている。
しばらく歩いていると、探していた人物を見つけて鈴は小走りで近づいて声をかけた。
「弥七さん!」
「ん? ああ、あんたか。もう体調は良いのか?」
「はい! バラありがとうございました。やっぱりあのバラ、とても良い香りですね」
「あれは匂いが強めのバラなんだ。病人の部屋に飾るにはちょっとどうかとは思ったんだが、気に入ってたみたいだしな」
「とても良い香りで何だか良い夢を見たような気がします。覚えていてくれただけでも嬉しいのに、本当にありがとうございました。それからご心配をおかけしましたが、もうすっかり元気です」
そう言って頭を下げた鈴を見て弥七は珍しく笑って頷く。
「元気になったんならそれでいい。今日も見てくのか?」
「構いませんか? 邪魔はしないので」
「ああ。あんたが邪魔しないのはもう知ってる。一応エプロン取って来いよ」
「分かりました」
弥七に言われて鈴が納屋にエプロンを取りに行くと、四阿の方から千尋が雅と一緒に歩いてきた。何だか二人の顔がとても真剣で鈴はすぐさまその場を離れると、急いで弥七の元に戻った。
「あんた用のエプロンもあっていいかもな」
「え?」
しばらく夢中になって草引きの手伝いをしていた鈴に、弥七がポツリと言った。
「これからも庭仕事するんだろ?」
「えっと……お邪魔じゃなければ……したいです」
「邪魔なんかじゃないさ。わかった」
それだけ言って弥七はまた作業に戻ってしまうが、鈴は複雑な思いでいた。もしも千尋の花嫁に選ばれなかったら、鈴はここに居る事は出来ない。だからこの先庭仕事を手伝えるかどうかははっきりとは分からないのだ。
「あの、私――」
「言わなくていい。どうなるか分からなくても、未来に良い予定を立てておいた方が毎日楽しいだろ?」
「! そうですね。悲観するよりはその方がずっといいですね」
「ああ。だから、その先は言わなくていい。あんたはどんなエプロンがいいか考えておいてくれ」
「もしかしてプレゼントしてくれるのですか?」
「ああ。いつも手伝ってくれてるんだ。それぐらいはさせてくれよ」
何だか意外な弥七の一面を見た気がして鈴は思わず微笑んだ。
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
「おう」
それだけ言って弥七はそっぽを向いてまた無言で草を引き始める。そこへ今度は雅がやってきた。
「なんだい、あんた達無言で草引きなんかして」
「雅さん! すみません、何だか無心で草を抜いてました」
雅が来たことにも全く気づかず夢中になっていた鈴が言うと、雅はおかしそうに肩を揺らす。そんな雅に弥七が言った。
「姉御も手伝いますか?」
「嫌だね。真っ黒になるじゃないか」
「いや、元々真っ黒ですよね?」
「そりゃ猫の時だろ! 鈴は既に真っ黒だね。今夜はゆず湯だよ。一番に入りな」
「さ、最後でいいですよ! それに一番は千尋さまが入るべきかと!」
「私は何番でも構いませんよ。おや、顔にまで泥をつけて」
「ち、千尋さま!?」
何だか今日はよく千尋と出くわす日だ。鈴がそんな事を考えながら立ち上がると、千尋は白い手で鈴の顔の泥をぬぐってくれた。そんな光景をギョッとしたような顔をして雅と弥七が見ている。
「あ、ありがとうございます。これ使ってください」
泥がついた千尋の手を見て鈴がそっとハンカチを差し出すと、千尋は小さく微笑んでハンカチを受け取ってくれた。
「こちらこそありがとうございます。汚れてしまったので新しいのを贈りますね」
「へ? いえ! 洗えば落ちるので大丈夫です!」
「そうですか?」
「はい。まだ使える物の代わりを買うのは勿体ないと母がいつも言っていました。私もそう思います。だからお気持ちだけいただきます。ありがとうございます」
「バカだねぇ。喜んでたっかいハンカチねだればいいんだよ、こういう時は」
「む、無理です!」
貧乏性が服を着ているような鈴だ。そんな事が出来るはずもない。
「確かに無駄遣いはいけませんね。でも、私が受け取って欲しいと言ったら受け取っていただけますか?」
「えっと……物によるかと……」
それこそ雅の言うようにたっかい物を差し出されたらきっと鈴は卒倒してしまう。そんな鈴の心を知ってか知らずか、千尋が鈴の顔を覗き込んできた。
「では今何が一番欲しいのです?」
「今、ですか? えっと……鉛筆でしょうか」
「鉛筆?」
「はい。字の練習をしすぎて鉛筆がもう持てない程小さくなってしまったので」