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第11話

「そうですね。私の力を宿すことが出来るかどうか、それが分からない限りどのみちもうしばらくはここに居てもらわないといけません」

「その間にあんたはあの子にしっかり物を教えてやんなよ。あの子、家の外の事はな~んにも知らないみたいだからさ」

「ええ、そのつもりです。今後もよろしくお願いします、雅。ああ、それから彼女の着物もいくつか見繕ってやってくれますか? せめて着るものぐらいは身丈のあった物にしてやりましょう」


 千尋の言葉に雅は一瞬何か思いついたような顔をして返事をする。


「はいはい」


 雅はそう言ってさっさと部屋を出て行ってしまった。きっと最近見つけたというお気に入りの寝床に向かったのだろう。


 千尋は机の上の書類を片付けて大きなため息を落とした。


「興味……ですか。私には一番難しい事ですね」


 そんな事を考えながら千尋は書類仕事に戻った。



 鈴が神森家にやってきて半月が経とうとしていた。初めてここにやってきた時にはあれほど怖いと思っていた神森家が、鈴にとって既にとても居心地の良い場所になりかけている。


「これじゃあ駄目だ……出ていく時辛くなる……」


 喜兵衛に頼まれて野菜の下処理をしながら鈴が呟くと、そこへ買い物から戻ってきた喜兵衛がやってきた。


「流石、野菜の下処理も早いですね! そろそろ飾り切りの練習をしてみますか?」

「いいんですか?」

「もちろんです。まずは定番の人参のねじり梅を作ってみましょう」

「はい!」


 喜兵衛が作る煮物などによく入っている人参で象った梅の花は、入っているだけで嬉しくなる。鈴は洋食が得意だが、喜兵衛のように見た目にも美しい料理もしてみたい。


 それから二人は調理を終えた後の短い時間に飾り切りの練習を始めた。時には雅も混ざり、意外と鮮やかなナイフ捌きを披露してくれる日もあった。


 それが終わると今度は千尋に呼ばれる。約束通り千尋はあれからほぼ毎日文字を教えてくれているのだ。


「いいですね。もっと力を抜いても大丈夫ですよ」

「はい」


 今日は毛筆の日だ。鈴は千尋に言われた通り深呼吸を一つして肩の力を抜くと、ゆっくりと半紙の上に筆を滑らせた。


「ええ、綺麗です。書く練習をしていたのは素晴らしいですね」

「日本語は絵を書くみたいで楽しいです」


 鈴が答えると、千尋は少しだけ笑って鈴の後ろに回り込むと、後ろから筆を持つ鈴の手に自分の手を重ねてくる。


「何でも楽しいと思う事が上達する一番の近道です。ここはしっかりとめて、逆にここはしっかりとはらいましょう」

「……はい」


 せっかく龍神が手ずから教えてくれているのに邪念は良くないと思いつつも、何だか千尋はいつも良い匂いがするし、妙に色っぽい声に鈴はドギマギしてしまう。


「どうかしましたか?」

「いえ、大丈夫です。すみません」


 モゴモゴ言う鈴を不審に思ったのか、後ろから千尋が鈴を覗き込んできた。突然の千尋のどアップに思わず鈴は身を固くしてしまう。


「ちょっと龍神さん、そんな近くに居たら鈴が書きたくても書けないじゃないか」


 それまでつまらなさそうに部屋の隅で丸くなっていた雅が、そんな事を言いながらこちらに向かって歩いてきた。


「おや、これは失礼しました。誰かに物を教えるのはいつの時代も楽しくてつい」

「だからってそんなに近づかなくても教えられるだろ? はい、離れて離れて」


 人型に戻った雅は鈴と千尋の間に無理やり体をねじ込ませると、まるで鈴を千尋から庇うように背に隠してくれる。


 最近の雅はいつもこうだ。千尋と鈴をあまり近づけさせたくないのか、千尋と二人で字の練習をしていると必ずやってくる。


 それが千尋の為なのかそれとも鈴の為なのかは分からないが、少なくとも鈴はいつも雅が割り込んできてくれてホッとしている。


「何もこんなにも離れなくてもいいでしょう? これでは何も教えられません」


 雅に部屋の隅まで押された千尋は困ったように笑って雅に文句を言った。


 けれど雅はそんな千尋を鼻で笑っていつもの調子で言い返す。


「あんた目いいだろ。そっから指示出しゃ鈴はすぐに出来るようになるよ。なぁ? 鈴」

「えっと、は、はい。多分」


 大分遠いが、後ろに貼り付かれるよりは緊張しない。とりあえず頷いて見せた鈴に雅は満足げだが、千尋は不本意そうだ。


「まぁいいでしょう。それでは明日は硬筆の練習をしましょうか。毛筆と硬筆では力の入れ具合も何もかも変わってしまいます。何よりもこれからの時代はきっと、硬筆の方が使う機会が多いでしょう」

「分かりました。準備しておきます」

「ええ。何か質問はありませんか?」


 千尋の言葉に鈴が質問を考えていると、鈴の後ろから猫の姿に戻った雅が口を開いた。


「あるよ。今度の日曜に鈴を連れて街まで行っても構わないかい?」

「それは文字の質問では無いでしょう? そもそも私は鈴さんに聞いているのですよ」

「そりゃ失礼したね。で、連れ出してもいいかい?」

「目立たなければ構いませんが、他の人との接触は出来る限り避けてくださいね」

「もちろんさ。ちょっと買い物に行くだけだからね」

「買い物? 鈴さんを連れて?」

「ああ。鈴は今、喜兵衛に飾り切りを習ってるんだ。それ用のナイフを買ってやろうと思ってさ。あと頼んでた物を取りに行ってくるよ」


 得意げに雅が言うと、千尋はそれを聞いてポンと手を打った。


「ああ、なるほど。ではお願いします。では頼んでいた物とは別に鈴さんの反物をいくつか見てきてくれますか?」

「え!?」


 この千尋の発言に鈴は驚いたが、雅は何故か何もかも察したかのように頷いている。


「寸法の合わない着物をいつまでも着ているのは流石に可哀想ですからね。お願いしますね」

「分かった。そんな訳だから鈴、日曜日は街に買い物に行くからね」

「は、はい、いえ、ですが私、手持ちがほとんど……」

「何言ってんのさ。ここをどこだと思ってる? 腐っても侯爵家だよ」

「腐っても、は余計ですよ。鈴さん、雅の言う通り金銭に関してはここにいる間は気にしないでください。今までの方もそうだったので」

「そ、そうですか……?」


 まだ結婚すらしていないのに、むしろいつ追い出されるかも分からないのに鈴が着る物の代金を千尋に支払わせてしまってもいいのだろうか? 

 鈴が戸惑いながら曖昧に頷くと、そんな鈴を見て千尋が笑った。


「本当に遠慮はいりません。もちろん後で代金を請求したりもしませんし、もしもここを出る事になったらその時はどうぞお持ち帰りください」

「そうだよ。ここに来られて運が良かったぐらいに思っときな。それだけの仕事をあんたはしてる」

「は、はい……」


 頷いてはみたものの、それは無理だ。仕事と言ったって針仕事や洗濯や掃除や喜兵衛の手伝いぐらいしかしていない。


 内心ではそう思っている訳だが、何だか千尋と雅の圧力が強くて鈴はそれ以上何も言えなかった。



 その夜、千尋は書類をまとめるのを手伝ってもらおうと思い雅を探していた。


「雅? どこですか? ああ弥七、雅を見ませんでしたか?」


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