確認するかのような千尋にここを追い出されたら帰る場所が無い事は伝えなかった。帰ったとしても、一生蔵で過ごす羽目になってしまう。それならばそのままどこか違う場所でたった一人で生きる方がマシだ。
「ところで話は変わりますが、今日の夕食は何を作るご予定ですか?」
「とんかつにしようと思います。千尋さまはとんかつはお好きですか?」
「食べた事がありませんね。名前からもちょっと想像出来ません」
そう言って柔らかく微笑む千尋に思わず鈴の頬も緩みかけたが、ふと雅の言葉が脳裏を過ぎる。
『皆あの見た目と物腰に騙されるけど、流石に長生きしてるだけはあるって思う程度には性格悪いよ』
「どうかしましたか?」
「あ、いえ! 千尋さまのお気に入りの洋食はなんですか?」
「私ですか? そうですね……実を言うと、お恥ずかしながらあまり洋食自体食べた事が無いのですよ」
「そうなんですか? あれほど喜兵衛さんに作って欲しそうだったので、てっきりしょっちゅうどこかで食べていると思っていました」
「はは、実は二度ほど食べただけなんです。理由はあまり外出する機会が無いのと、喜兵衛が作れないからなんですけどね」
「そうだったんですね……では、メンチ・ボールやコロッケなんかも召し上がった事はありませんか?」
「ないですね。私が食べたのはステーキとオムレツです」
「では次の機会があればとんかつ以外の料理に挑戦してみます。苦手な食べ物があれば遠慮なく仰ってくださいね」
「ええ、是非」
どこまで本気か分からないけれど、少なくとも鈴の提案に千尋は嬉しそうに頷いた。
上機嫌の千尋と別れて自室に戻り割烹着を脱ぐと、どこからともなく猫雅がやってきた。
「どっか行くのかい? 屋敷の外にはしばらく出られないよ」
「はい、分かっています。少しだけ庭を見てみたくて」
「庭? なんにも面白いものはないけどねぇ」
「そうなんですか? ですが、先程からとても良い香りがするんです。これは花の香りですよね?」
「そうだねぇ、これは金木犀だね」
鼻を外に向けてヒクヒクしながら雅は言う。それを聞いて鈴はパッと顔を輝かせた。
「金木犀! どのお花ですか? ここから見えますか?」
「あんた、金木犀見た事無いのかい?」
「無いです。佐伯の庭には植わって無かったので」
「ふぅん……いいよ、ついてきな。あたしが案内してやるよ」
「ありがとうございます!」
鈴は雅に言われて汚れてもいい格好をすると、庭に散策に出かけた。
「これが瑠璃茉莉、あれが山茶花、こっちは山丹花。バラだろ、南天だろ、で、あれが金木犀だ。あたしはこの匂いが苦手なんだ」
言いながら雅は鈴に抱けとせがんでくるので、鈴は雅を抱き上げて金木犀に近寄った。
「凄い香りですね」
何とも言えない芳香に思わず鈴が言うと、雅が前足で鼻を抑えながら鼻声で「そうだろ?」と顔をしかめる。
何だかそんな雅が不憫になって金木犀から離れると、遠くから小さな黄色い花達の群れを見た。
「これぐらい離れている方が良い香りです」
「そうだね。あんまり近づくと芳しいを通り越して臭いんだ、あれは」
「ふふ、雅さんは花にも毒舌家ですね」
「誰が毒舌家だ! 正直なんだよ、あたしは!」
「そうでした」
綺麗な花を前にしても雅の口の悪さは直らない。何だかそれがおかしくて笑っていると、目の前を剪定ばさみを持った男が通り過ぎて行った。その姿はやはり狐だ。
「あの方はこれから何をするのでしょうか?」
「あいつはここの庭師の弥七だよ。ハサミを持ってたから剪定でもするんだろ」
「少しだけ見に行ってもいいですか?」
「構わないよ。なんだい、あんた以外と好奇心が旺盛なんだね」
「どうなのでしょうか……あまり自分ではよく分かりませんが、初めて見るものばかりでとても楽しいです」
実際、佐伯の家に居たときよりも今の方が笑っている気がする。鈴はそんな言葉を飲み込んだ。
「そうかい?」
不思議そうに首を傾げた雅を抱いたまま弥七の後を追うと、弥七は見事なバラで出来たアーチの前で止まって何かをしだした。
「あの、すみません」
「ん? ああ、次の花嫁候補さまか。そんな方が俺に何の用事だ?」
喜兵衛とは違って弥七は少しつっけんどんな狐だ。
そんな事を考えながら鈴は弥七に少しの間作業を見ていていいか尋ねると、弥七は邪魔しないのなら、という条件で許可してくれた。
弥七の作業を邪魔しないように離れた場所から作業を見ながら雅の解説を聞く。
「あれは何とかって種類のまだ入ってきたばっかの奴なんだ」
「デュシェス・ドゥ・ブラバン」
「そう、それ。それでな、あっちは今までの奴と違うんだってさ。何だったか、今までのはオールドローズって奴だったらしいけど、最近はこっちのが主流だそうだ」
「モダンローズのラ・フランス」
「そうそう、そんな名前だった! それで――」
それからも雅は得意げにバラの話を聞かせてくれたが、ちゃんと聞いているとほぼ弥七が答えている。
「雅さんは何でもよく知っているんですね。それに弥七さんも流石庭師です。長い横文字の名前をよく覚えていますね、凄いです」
「まぁね。あたしは大抵の事は何でも知ってるよ」
自慢気に胸を張る雅を横目に弥七は少しだけ恥ずかしそうに視線を伏せて頭をかく。
「まぁ庭師だから……品種名が分からないと世話出来ないだろ」
「それはそうですが……ああ、メモを持ってくれば良かった」
今聞いた名前を既に忘れそうだ。それを弥七に伝えると、弥七は少しだけ笑ってまた教えてくれると約束してくれた。
帰り際、剪定の為に摘み取ったバラを弥七がくれた。よく見るときちんと棘まで取ってある。
「あ、ありがとうございます。いいんですか?」
「構わないさ。どうせ捨てるだけだからな」
「捨てるんですか!? まだこんなにも綺麗なのに!」
「バラはそれぐらいになったら全部摘むんだ。でないと花の数が減ってしまう」
「そうなんですか……それをしないとこんなにも綺麗なアーチは見ることが出来ないのですね……」
「だから余計に人気なんだろ。切り花でも結構長く持つから、今度から切ったらあんたにやるよ」
「ありがとうございます。とても……嬉しいです」
鈴は生まれて初めて父親以外から貰った花を胸に抱いて弥七に深々と頭を下げた。
そんな鈴を見て弥七はニコリともせずに頷いて作業に戻ってしまう。
「そろそろ戻ろう。あんた今日の夕飯作るんだろ?」
「そうでした。とんかつなのに揚げる時間をすっかり失念していました」
「だってさ、弥七。今日はうちで初めての洋食だよ」
雅が言うと、弥七は一瞬耳をパタパタと動かして作業を続ける。それを見て雅が笑った。
「見たか? 嬉しいみたいだぞ」
と。
それから二人で炊事場へ向かい、喜兵衛と三人で夕食の準備に取り掛かった。
「肉はこのくらいの分厚さでいいんですか?」
「はい。それぐらいが食べごたえがある思います」
言いながら鈴は喜兵衛が切った豚肉に衣をつけて油の中に投入する。