荷物は昨夜のうちに準備をしておいた。
リュックに食料と水を詰め込んである。
念のためあかりの部屋で見つけた郵便物をいくつか持っていく。
僕に何かあった時の為に彼女の身寄りを証明する保険だ。
朝食を済ませ、僕はデニムの上下を着込み、軍手とマスク、サイクリング用のヘルメットを身に着ける。
1週間して足首の痛みは何もしていなければそれほど感じられないが、鎮痛剤を飲んでいても体重をかけるとまだだいぶ痛むのでタオルできつく縛り固定してある。
あかり合うサイズのものがなかなか見つからないので、他の部屋から新しく見つけてきたぶかぶかのパーカーを羽織りハーフパンツの紐をキュッと縛り、ニット帽の上からさらにヘルメットをかぶる。
用心に越したことはない。
避難所が設営されている自衛隊の駐屯地はここからは南東へ20キロ程で隣町にある。
普段ならば自転車でも小一時間でたどり着ける道のりだ。
だが治りきっていない足で彼女を連れて行くには危険が過ぎる。
道中何があるかわからない。
やはり車が必要だ。
僕は車を持っていないが、入手先には心当たりがある。
大きな音を出すことになる上、また得意の出たとこ勝負の賭けではあるのだが確度は高いと踏んでいる。
「よし、出発だ。あかりちゃんはアパートの入口の中で待っていて」
「うんわかった。気を付けてね」
僕は先に一人で先にエントランスを出て、アパート1階のベランダ側へ回り込む。
周りに奴らは居ない。
ベランダの手すりを乗り越え、窓ガラスに養生テープを張り、ダンベルで打ち破る。
ガシャと音が出たがそれほど遠くまでは響いていないだろう。
窓の内側から鍵を開け、素早く部屋に侵入する。
彼はこれまでずっと叩いていた玄関のすぐ近くに佇んでいた。
その手はグロテスクに砕け、骨がむき出しになっている。
彼は生きた『感染者』なのか、モンスターと化した『ゾンビ』なのか……。
コンビニに出かけて足を怪我して2体のゾンビを屠った夜の自問自答を思い出す。
答えの方はまだ出ていない。
「田中さん、すみません」
この罪も恩も、きっと一生忘れない。
僕に出来るのはそれだけだ。
僕らは生きて避難所へ行くと決めたのだ。
田中さんの頭に渾身の力でダンベルを振り下ろす。
慣れたものだ。
ゴツリという鈍い音とともに一発で彼の頭はへこみ、どさりとその場に倒れ落ちる。
彼のポケットか、鞄か、玄関あたりに車の鍵があるはずだ。
……あった、ハンガーにかけられていたスーツポケットにスマートキーが入っていた。
「ありがとうございます、田中さん」
僕は手を合わせ、部屋を後にする。
「あかりちゃんお待たせ。外に出よう」
待たせていたあかりと合流し、アパートの駐車場に停めてあるツーシーターのスポーツカーの元に急ぐ。
車に無頓着な僕だがいい車だということはなんとなく分かる。
助手席に彼女を乗せ、リュックを抱えてもらう。
エンジンは、そうかこのタイプの鍵だとスイッチなのか。それに免許証を取って以来10年ぶりのマニュアル車か、あまり自信はないな。もっとも、そもそもオートマ車ですらほとんど乗ってきていないペーパードライバーなのだが。
クラッチを踏み込みスイッチを押すとブオオオンと大袈裟なエンジン音が鳴り渡る。
ガソリンは……半分くらい残っている。十分だ。
この轟音だ。ぼやぼやしている場合ではない。
「いくよ、シートベルトしっかり締めといてね。安全運転は保証できないから」
「わかった!」
よし、うろ覚えの半クラッチ動作でエンストせずに発車できた。
右足はタオルで固く固定されているので若干ペダルを踏みにくいが何とかなりそうだ。
向かう先の自衛隊駐屯地は何度か近くを通ったことがあるので迷うことはないだろう。
カーナビもGPS自体は生きているようでオフラインモードで起動できている。交通が妨げられていた場合の迂回路の心配も無くなった。
信号で止められることのない今の状況なら、何もなければ30分もかからず到着できるはずだ。
ゆっくりと道路に出るとエンジン音に引かれたゾンビたちがゾロゾロと僕たちを出迎える。
彼らを避けつつ進むのは思った以上に運転しにくい。あまりスピードは出せない。
1体や2体なら跳ね飛ばせるだろうが集団で道を塞がれていたら立ち往生してしまい一巻の終わりだ。
まだ近くにこの間僕を追い詰めた集団が残っているかもしれない。慎重に進まねば。
あかりにはこの一週間の間に外の『ゾンビ』が何者であるのか、そして僕が外で何をしたのかは包み隠さず話していた。それでもあまりショッキングな場面を見せたくはないのもある。
少し遠回りになるが繁華街は避けていこう。
コンビニに出かけた際にはあまり見かけなかったが大通りを進むといたるところに事故車や停車している車が残されているのが目に入った。
そのほとんどにゾンビと化した運転手や同乗者たちが残っている。運転中に発症してしまったのだろう。そしてドアを開ける知能も失い閉じ込められてしまっているのだ。
道路には時々血だまりのような黒い後が残っていることもあった。
中にはゾンビ化すら許されず食いつくされたような遺骸の残滓が残されていることもあった。
僕が最初に見たような惨劇もいたるところで起きていたのだ。
パンデミック発生時はさぞ悲惨な光景が繰り広げられていたことだろう。
「あかりちゃん、外はあまり見ない方がいい……」
「ううん、でもおじさんだけじゃ危ないからわたしもちゃんと見る。頑張る」
「わかった。でもあまり無理をしないでね」
あかりはずいぶんと肝が据わったようだが、 横目に見た彼女の顔は蒼白となっていた。
話は聞かせていたがやはり実際に目にするのはこたえるようだ。
それでいい。ちゃんと怖がってくれないと逆に危険だ。
ゆっくりながらも運転は順調だ。
市街地を離れるにつれ通り沿いには田畑や林が多くなり、ゾンビの姿はまばらとなってきた。
しかしそこであかりが急に怯えたような声でこう言う。
「おじさん、車停めて!」
前方には異常なし。バックミラーにも何も映っていない。
「どうしたの、あかりちゃん。何かあった?」
「左前……畑の方……」
車を停め、僕の視界に入ってきたのはゾンビの大群、それもこの間のコンビニからの帰りに遭遇したものとは桁違いの数だ。
ざっと見ても500は下らない。凄まじい行列だ。
距離はだいぶ離れている。大通り沿いの畑の向こう側、あぜ道を僕らの進行方向とは逆に進軍している。
車の音は届いていたかもしれないがこちらには向かってきていないようだ。
何かを追っているのだろうか。
仮に人が追われていたとしてもこの車では座席が足りず乗せるわけにもいかない。それにあの数のゾンビの前に出て確かめる勇気は僕にはさすがに無い。
「気づかれたら厄介だ。やり過ごそう。じっとしていて」
「うん……」
エンジンを止め、息を潜める。
……
…………
………………
ゾンビの歩みは遅く、行列が見えなくなるまで10分程かかった。
「そろそろ通り過ぎたかな」
「もう顔あげてへいき?」
あかりはパーカーのフードをすっぽり被ってシートに丸まっていた。
「大丈夫そうだ。ありがとう、僕だけじゃ見過ごしてたかもしれない」
「うん、わたしもちゃんと見ててよかったでしょ」
まったくだ。
奴らに気づかれる前に発見できてよかった。
仮に奴らがこちらに向かってきても車なら振り切るのは容易だが、万一引き返すことになった場合を考えると道路に居座られ塞がれてしまっては困る。
それに着いてこられたら僕らの目指す駐屯地方面にあれを誘導してしまっては大変なことになる。
奴らは一度集まってしまったら次第にまとまり徐々に大きな集団を形成していくようだ。
そうなると安全な地帯は増える反面、一度目をつけられたら最後、津波のように押し寄せ全てを飲み込んでしまう脅威となるに違いない。
あの異常な数のゾンビの質量に押されたらフェンスや塀なども意味を為さず強固な建物ですら壊されかねない。
「頼りにしてるよ。さて、行こう」
一抹の不安を抱えながらも僕らは引き続き駐屯地を目指す。