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第10話

 自衛隊の駐屯地に設営されているという避難所へ行く。

 そう伝えた後、あかりは表情を曇らせたままだった。


「行くといっても、僕の足の怪我もあるしすぐにというわけにはいかないけどね」


「うん……」


 彼女の心の整理には少し時間が必要かもしれない。

 幸い今回のたった片道300メートルの過酷な遠征で数日分の飲み物は確保出来た。食糧もまだ余裕がある。

 それに駐屯地の避難所の準備が整い、救助隊が回ってくるかもしれないというか細い期待も無くはない。

 さしあたっては不甲斐ないが僕の足の養生だ。

 自力で行くにしろ救助を頼るにしろ足がこのままでは外へ出るのは自殺行為に等しく、救助の機会も逃しかねない。

 戸棚にあった塗り薬の鎮痛消炎剤を塗りこみ、テーピング代わりにタオルをぐるぐる巻きにしてなんとなく足首を固定する。

 多少は歩くのが楽になったが出来るだけ安静にしておこう。


「すごい腫れてた……痛いの?」


 あかりはとりあえずの治療を終えてへたり込んでる僕の足を見てそう呟く。


「挫いた後ちょっと頑張りすぎちゃったみたいでね、泣くほどではないけど結構痛むかな……」


 彼女は何やら考え込んでいるような様子でじっと僕の足を見つめている。

 今は無理に彼女を説得したり言い聞かせるようなことはやめておこうと僕は思った。

 その日のうちに僕らは落ち着きを取り戻し、僕は時折外の様子を伺いつつソファーで休み、あかりはいつものようにベッドの上で本を読み過ごした。

 これまでに増して甲斐甲斐しく手伝いをしてくれる彼女の姿は素直に嬉しく思った。


 夜になっても足の痛みは引くどころかますます強くなり、疲労はそれなりにあったにも関わらずなかなか寝付けない。

 あかりはもうベッドで寝入ってるようだ。

 僕はあまり酒を嗜む方でなかったが、部屋にあったもらい物のウイスキーボトルに手を伸ばす。

 こんな非常時に酔いすぎて思考が鈍るのを恐れていたが今日だけは酒の力を借りよう。

 室温のままのウイスキーとミネラルウォーターをマグカップに注ぎ、口をつける。

 香りを楽しむ通の飲み方らしいが、僕には少々きつい。


 窓から差し込む微かな月明かりの下でちびちびとカップを傾けながら、今日の出来事を反芻する。

 ゾンビの1体や2体くらいは落ち着いて対処すればそこまで危険ということはなかった。

 しかし今でもあの感触を覚えている。人の頭蓋骨を打ち割る感触を。

 人殺しでもなければ、普通は一生味わうことがあるはずもないあの嫌な感触。

 スピーカーの声の主も言っていたように、彼らは『感染者』なのだ。

 間近で見たらとても生きている人間のようには思えなかったが、もしかしたらそのうち治るのかもしれない。

 治らないにしても、植物状態に陥った患者が実は意識はずっとあっただとか、夢を見続けていたなどという話もどこかで聞きかじったことがある。もしかしたら感染者たちもそのような状態になっているのかもしれない。

 だとするならば、その可能性を断ち切ってしまった僕は殺人者なのだろうか……。


 痛みはだいぶ紛れてきたようだが、碌でもない事ばかり頭に浮かんできてしまう。

 こんなことを考えても仕方がないことは分かっている。

 やはり酒は向いてない。

 それにシャワーは使えないのだ。あまり飲み過ぎると酒臭くてあかりに嫌がられてしまうな、などと考えつつようやく眠りにつくことが出来た。


 ――――――――


 翌朝朝食を終え、僕が顔をしかめながら足に軟膏を塗ってタオルを巻き直してるとあかりは突然意を決したようにこんなことを言い出した。


「わたし、ママの部屋から薬とってくる」


 無意識だったのかもしれないが『ママの』という言い方は彼女なりの決別なのか前に進む意思表示のようにも思われた。

 彼女は数日前までは餓死寸前で身動きも取れないような状態だったはずなのに、その変貌ぶりに驚かされた。

 もちろん痩せっぽちのその身体はほとんど彼女と出会った時そのままなのでまだまだ健康体には程遠いのだが、その目には彼女なりの意志の芽生えが見えた。


「ママが痛い時に飲んでる薬があるの知ってるの。それを探してきてあげる!」


「それはありがたいけど、大丈夫?」


「平気。おじさんみたいにわたしも頑張ってみたい」


 すぐ隣の部屋ではあるが、そこは彼女にとって辛い場所のはずだ。

 でもその決意を邪魔したくない。


「じゃあ1つだけ約束してくれるかな」


「うん、言ってみて」


「絶対に無理をしないこと」


「わかった。無理しないよ」


 そう言うと彼女は玄関に向かい、靴が無いのでぶかぶかの僕のサンダルを履く。


「あ、外の奴らに気づかれないよう注意して、静かにね」


「うん、2つ目の約束ね。気を付ける」


 そっとドアを開け、彼女は隣の『ママの部屋』へ向かった。



 5分が経ち、10分が経ち、それでも一向にあかりは戻ってこない。

 耳を澄ませても物音はしない。

 静かに、と言ったものの静かすぎる。

 20分が経ち、さすがに心配になってきた。

 ほんの数メートル。たった一枚の壁を隔てているだけなのに初めてのお使いの帰りを待つ父親のような心境だなと思った。

 ガタガタという音が鳴ったが、これは田中さんか。心臓に悪い。

 彼女は怯えてないだろうか。

 様子を見に行くべきかとそわそわしていたところ、不意にドアが開いた。


「ただいま」


「お、おかえり、平気だった?」


「ごめんなさい、部屋で少し考え事しちゃってたの。はい、これお薬」


 そう言いあかりが頭痛生理痛用と書かれた錠剤の箱を僕に手渡す。

 成分的に消炎鎮痛作用があるものなのでちゃんと僕の足の痛みにも効いてくれるものだった。


「ありがとう、これは助かるよ。正直痛くて参ってたんだ」


「どういたしまして!これでまずそうにお酒を飲む必要もないね」


 しまった、バレてたか。

 にこりと笑う彼女の笑顔はすっきりしたものだった。


「……わたしね、ずっとほんとに怖かったの。ぶたれることも、酷いこと言われることも、外に出ることも……」


 彼女は続ける。


「でも思ったの。助けてもらうのも、助けてあげるのもこんな簡単なことだったんだって。ちょっとドアを開ければ済むことだったんだって。もっと早く分かってればママも酷いママに成らずに済んでたかもって」


 はっとさせられた。

 僕が彼女との会話を通じて思ったことに少し似ている。

 そんな簡単なことが分からないまま、かつての僕らはそれぞれ一歩を踏み出せずにどうしようもない日常を受け入れてしまっていたのだ。これからは違う。


「ママ、いつも辛そうな顔をしてた。だからわたしはもしママに会えたら助けてあげたいの。だからもう怖くないよ。避難所に行くのも」


 あかりは僕よりもずっと過酷な環境にありながら僕よりもずっと強く、僕が思っていたよりもずっと早く彼女は前を向き始めた。

 世界が彼女を拒絶しようとも、あかりはそんな世界を照らして変えていく力を持っている。

 ゴミ溜めのような部屋で絶望の淵に佇んでいた薄汚れた少女は、今はとても輝いて見えた。


 「うん、行こう」



 ――――――――


 それからの1週間、僕は足を休めながらも少しずつストレッチや軽い筋トレをこなし、あかりも僕の真似をして体操をした。

 元々がだいぶ華奢なのでうろ覚えのラジオ体操程度の運動でもすぐ疲れてしまうようだが、徐々に通しでやり切れるくらいに体が慣れてきた。

 食事も多くは持っていけないので使い切る勢いで出来るだけ豪勢にした。

 あかりの食事のパンにはコンビニの戦利品であるバターをたっぷり塗り、食後には蜂蜜たっぷりにアレンジした水で溶いたプロテインを用意した。

 運動や食事をしている以外の時間、あかりは読書をして過ごし僕は来る出発の時への準備を進めつつも外の様子に気を配る。寝る前の彼女が読んだ本の感想会は恒例となった。

 あかりが探してきてくれた鎮痛剤はそれなりに効いてくれたが、痛んだ靭帯や筋肉を劇的にどうにかしてくれるものではない。効いている間は小走りくらいは出来そうなので最後の何錠かは出発の時まで取っておいた。

 何日経っても駐屯地の避難所からの救助は来る気配がなかったが、彼らが無事であってくれればそれでいい。



 僕が籠城を始めてから2週間と少し、あかりと出会ってから10日ほどが過ぎようとしていた。

 食料と飲み物は携行性の高いエナジーバーやチョコレートを残してほとんど底をつく。


 出発の朝だ。


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