どれくらい時間が経っただろう。
5分? 10分?
藪の中には僕を追いかけてきたゾンビがおそらく1体。
藪の外にはクラクションに引かれて移動してきたゾンビの大群。
事態は一向に好転する気配がない。
これならいっそコンビニのバックヤードや中古車販売店の建物に立て籠もっていた方がよかったか?
いや、逃げ場がないのはまずい。
ベストではないにしろ逃げるだけならどうとでもなる今の状況はまだましだ。
問題は悪化してきた右足の痛みと、ここはもうあかりが待つ僕のアパートまで200メートルも離れていないことだ。
大群に見つかってしまったらあいつらを出来るだけアパートから遠ざけて撒くしかないが、この足ではもう引き離すことは難しいかもしれない。しかもまたその先でゾンビを集めてしまったら……エンドレスだ。
持久戦では敵わない。
どういうわけか奴らは一週間以上無補給、おそらく無睡眠でも活動し続けるが僕の場合そうはいかない。
やはり、ここで何とかしたい。
クラクションに煽られて興奮状態だった奴らはきっと落ち着きを取り戻し、獲物を見つけるか新しい刺激を受けるまではその辺をふらふらしているはずだ。
気取られないよう注意深く藪の中を移動し、奴らの反対側から出て何食わぬ顔でまたゾンビの振りして歩いていく。
結局の所そうするしかない。
藪の中の奴はいつ僕を嗅ぎ付けて向かってきてもおかしくはない。
今はまとまっている外の奴らも時間が経つにつれて藪を包囲するようにバラけてしまうかもしれない。
もうこれ以上躊躇している場合ではない。
よし、行くぞ。
少しずつ、身を屈めたまま長く伸びたススキやブタクサを押し分ける。
極力大きな音を立てないように、せめて外の奴らの注意を引かないように……。
パキッ。
足元で茎が爆ぜる音のする度に心臓が飛び出そうになる。
パキパキッ。
くそっ、どうしても音は出る。
それでも進む。
ガサガサガサッ。
藪の中の奴に感づかれたか。
しかしだいぶ距離は稼いだ。どうせ奴が音を立てるのだ。もう遠慮はいらない。
草を踏み分け僕は一気に藪を進む。
藪を抜けようとした瞬間、僕はまた愕然とする。
別の集団が……こちら側にも回りこんでいる!
全く気が付かなかった。
最初に見た大群と藪の中の奴に気を取られ過ぎていた。
どうする……! もう逃げ場はない。
藪の中の奴を始末して再び潜伏するか?
駄目だ、外から距離が近すぎるし既に音を立てすぎた。もう気づかれている可能性もある。
あかり……。
せめてこの荷物をアパートに投げ込み、少しでも彼女に生きながらえてもらうか……。
いや待て、何か聞こえる!
唐突にサイレンが鳴り渡る。
防災サイレン!? 電源が生きているのか?
町内隅々まで届くような凄まじい音量が流れ出した。
「こちらは陸上自衛隊。この声が届いている住民の皆様、落ち着いてお聞きください」
サイレンが止み、男性の声が聞こえてきた。
「この声は車上の拡声器からお届けしております。大変危険なため声のする方に出てこないよう安全な場所で聞いてください。現在、陸上自衛隊〇〇駐屯地に於いて臨時避難所を設営しております」
自衛隊駐屯地……そして避難所!
声の内容も気になるがゾンビたちはどうしている?
藪の外の集団は拡声器から発せられる大音量の出どころの方へ移動を始めている。ちょうどコンビニの方だ。
……助かった!
「市内の他の避難所、市庁舎、学校、大規模商業施設等はそのほとんどが既に危険な状態になっております。決して近づかないようにしてください」
わかってはいたが、街はもう壊滅状態なようだ。
「駐屯地の臨時避難所では十分な食料、飲み水、寝袋の用意があります。なお本車両にては救援は行えません。現在車両周辺には感染者が多く集まってきております。大変危険なので外に出ないでください」
「我々の準備が整い次第、順次救援活動を行います。それまでどうか命を守る行動をお願いします。車等で安全な移動が可能な方は直接駐屯地の臨時避難所に来てくださっても構いませんがくれぐれも注意して行動してください。繰り返します……」
彼らも混乱している。この状況を打破する手は取れておらず、人手も足りていない様子だ。
しかし今確実に間接的でも僕は救われた。
ガサッ。
藪の中まで追いかけてきていたゾンビが再び僕を捕捉し真後ろまで迫ってきていた。
しまった、呆けている場合ではない。もうこんな近くまで!僕までスピーカーの声に気を取られていてどうする。
大音量に乗じて、ここでかたをつける。
僕は左手の前腕をゾンビの顔に押し付け草の上にどうと押し倒す。デニムの長袖の上にタオルを何重にも巻いてある。人の歯では通るまい。
倒されながらもゾンビは涎を散らしながら暴れ、タオルを力強く噛んでいる。
分厚い生地越しでもかなり痛い。かなりの力だ。
あわよくば手足を何かで縛り無力化出来ないかとも考えていたが、一人では到底無理だ。
ごめんなさい、と心の中で懺悔をし、ダンベルを何度もその頭に打ち下ろす。
――――――――
残るゾンビたちはコンビニの方へ行進を続けており、僕は容易くアパートまでたどり着いた。
エントランスに入り内側から鍵をかける。
もうとても歩けない。
命懸けといえど、痛いものは痛いのだ。
這うように2階へ上がり、僕は部屋へ転がり込むと同時に床にどっと倒れ込んだ。
「ただいま。約束通り、ちゃんと帰ってきたよ。お土産もたっぷりだ」
「おじさん! 大変! 怪我してるの!? 血が!」
玄関まで飛び出してきたあかりはおろおろと慌てふためき、その目には涙があふれんばかりだ。
カラ元気でおどけてみせたが通用しなかったらしい。
「大丈夫。血は僕のじゃない。いやあまり大丈夫ではないか。風呂場で着替えをするから、君は部屋に戻っていて」
「うん……わかった」
右手に握ったままのダンベルは血に塗れ、服も泥や枯草の破片や種が引っ付いてぐしゃぐしゃだ。
血は危ないかもしれないな。汚れたものは早々に処分しておかなければ。
僕はよろよろと立ち上がり荷物を降ろし、風呂場で血まみれの衣服を袋に詰める。
靴下を脱ぐと右足首は真っ赤に腫れ上がり倍ほどに膨らんで見えた。
湿布はあったかな。
本当は流水で冷やしたいところだが今となってはとんでもない贅沢だ。
それにしても紙一重の生還であった。
不運が重なり、同じだけ幸運も重なった。
何がしっかり準備をした、だ。出たとこ勝負にも程がある。
結果論から言えば、じっと家にこもり先ほどの拡声器の声を聞けていれば危険を冒して街に出ることは不要だったかもしれない。怪我を負うこともなかった。
そしてゾンビ……感染者をこの手で殺めることも……。
久々に見る鏡の中の僕は酷い顔をしていた。
こんなではあかりを不安がらせてしまうのも当然だ。
しかしまだ命はあるし収穫もあった。
これはいつか乗り越えねばならぬ試練だったのだと自分に言い聞かせた。
気持ちを切り替えるのだ。
「あかりちゃん、さっき外から大きな声は聞こえたかな?」
「うん、よく聞こえなかったけど、避難所があるとか……」
「そうだ、僕らは助けてもらえるかもしれない」
「人……いっぱいいるのかな……?」
「きっとね」
助かるかもしれないというのに、彼女は複雑な表情を浮かべていた。
「もしかしたら、そこにママも……それに学校みたいに人がいっぱいいると……」
母親への恐れ、そして学校でのいじめか。
彼女の心の傷は根深い。
発端は母親だとしても、彼女はこんな風になってしまう以前に外の世界そのものに恐怖を抱いてしまっていたのだ。
それが、彼女の母親が帰ってこなくなってしまっても外に助けを求められず餓死寸前まで至った本当の理由だったのかもしれない。
それでも彼女にも一歩を踏み出してもらわなければ。
今回のことで骨身に染みた。
僕は、容易く死ぬ。
一人では彼女を守り切れない。
避難所までなんとしても彼女を送り届ける。
それまで僕は絶対に死ねない。
「あかりちゃん、避難所に行こう」