籠城8日目。
朝の食事を済ませ、僕は身支度を整える。
ジーンズを履き、デニムジャケットを羽織る。
左腕と首にタオルを重ねて巻き、サージカルマスクをつけ、サイクリング用のヘルメットを被る。
「おじさん、どうするのそんな格好して」
僕が物々しい服装に着替えているのを見て食後の片づけをしているあかりが驚いたような表情を浮かべていた。
彼女はだいぶ明るくなり、口数も増えてきた。
出来ることは率先して手伝いもしてくれる。
本来の彼女は名前の通り明るく快活な子だったのだろう。
「外へ水や食べ物を取りに行ってくるんだ」
「でもお外は危ないでしょ……?」
「大丈夫。そのためにしっかり準備をしたからね」
嘘だ。正直に言うとかなり危険だ。
動けるようになってからあかりも時々カーテンの隙間から外の様子を見ていたので、外の連中の様子がおかしいことは十分理解できているようだった。
「……わたしが居るせいで……」
「少し予定が早まっただけだから、君が気にすることはないよ。いずれ必要なことだったんだ」
あかりは不安げな面持ちで僕をじっと見つめている。
僕だって不安だ。
もし帰ってくることが出来なかったら、彼女はまた絶望の中ひとりぼっちになってしまう。
そのことがたまらなく怖い。
そうなる可能性を彼女に伝えるのも辛い。
でも、無責任ではいられない。
本当のことを彼女に伝えなければならない。
あかりは今にも泣きだしそうな顔をしている。
――――でももし僕が帰ってこなかったら。
……言えなかった。
何を言えばいい?
助けを待てと?
それでも来なければ?
待ち続けて飢えろと?
外に出ろと?
無理だ。
出来るだけ諦めずに生きて、そして駄目だったら死ね。
そんなことあかり言えるはずがない。
「心配しないで。絶対帰ってくるから」
「絶対に帰ってきて……」
「うん、絶対だ」
自分に言い聞かせるように力強く答える。
僕は空のリュックを背負い右手にダンベルを握りしめ、玄関を出た。
乾いた秋の風が心地よく吹き抜けていく。
アパートのエントランスから見る朝の風景は、出勤する時のそれと何ら変わりのないものだった。
向かう先はベランダからその看板が見えるコンビニエンスストアーだ。
アパート前の道路を渡ってたった300メートルほどの距離。
ただいつもの買い物のように歩いていけばいいだけのことだ。
ベランダから観察した限り、ゾンビたちは逃げる人間の姿や音を出す物に強く引かれて動いているようだった。
希望的観測に過ぎないが奴らと同じようにゆっくりと、ぎこちなく、静かに歩いていれば少なくとも遠くから集まってくることはないだろう。
まだ感染の経路が不明なこともあり、さすがに奴らに接近するのは避けたい。
それにどういうことかゾンビたちが共食いをしている様子は見られなかったことから、見た目や動作、音以外にも臭いか何かで判別しているのかもしれない。
よし、行こう。
エントランスからアパートの駐車場を抜ける。
近くに奴らは居ない……いや、道路の向かいに居る。ゾンビが1体。
僕は慎重に歩みを進め、歩道を進む。
ダンベルを握る手に力が入ってしまう。
いざとなったらこれであいつの頭を打ち据えてやればいい……。
……大丈夫だ。あいつはこっちを向いていない。やり過ごせる。
僕はちらりとアパートの2階の窓に目を向ける。
カーテンの隙間から心配そうに覗くあかりが見える。
僕は大丈夫だと手を上げカーテンを閉めるようなジェスチャーをすると、彼女はこくりとうなずきカーテンをそっと閉じる。いい子だ。
僕はあかりの待つ部屋を背にコンビニへと歩みだす。
身震いするような緊張感が全身を襲う。
安全な2階の部屋の中やベランダにいた時とは違う、360度広がる開けた空間が僕をたまらなく頼りない気持ちにさせた。
視線を前に向けると道路の反対車線には黒ずんだ染みが広がっている。
僕が目覚めた時に初めてベランダから見た凄惨な光景が脳裏にちらつく。
大丈夫だ。僕は彼のようにならない。なってはいけない。
ゆっくりと、力を抜いて、足を引きずるように歩く。奴らと同じように。
銀杏並木に囲まれた道路のど真ん中を突き進む。
視界が開け道の先の方を見やると遥か先までゾンビたちが点在しているのが見える。
こうして見ると付近の人口の割には外をたむろしているゾンビは少ないように思えた。
多くは田中さんのように建物の中で発症し閉じ込められたままなのだろう。
もしくは僕が思う以上に感染を免れた住人は多く、どこかに避難しているという線もあるかもしれない。
そうであって欲しい。
進路上に見えたゾンビを大きく迂回しつつ進む。
時々ゆっくりと振り返り後ろにも注意を払う。ついてきている奴は居ない。
僕はいつもなら5分とかからない道のりをおよそ10分をかけてコンビニの前に辿り着いた。
長い10分間だった。
気温の割に厚着をしているせいもあってか、どっと汗が流れている。
まだ気を抜いてはいけない。
僕は周りを見渡す。4体のゾンビが見える。1体は30メートルも離れていない。
大きな音を出すわけにはいかない。
自動ドアが開け放たれたままの入口からコンビニの中を覗き込むが、薄暗くてよく見えない。
がらんとした店内には動く者の気配はしない。クリアだ。
店内に足を踏み入れると、食品の棚にはほとんど何も残されていなかった。
当然だ。誰だって真っ先に狙う。
レジ裏も覗いてみる。こちらもクリア。
僕の狙いは重くて嵩張る飲み物だ。きっと冷蔵庫裏のバックヤードにはいくらか残されているだろう。
慎重に店内を進み、奥のトイレ脇のバックヤード入口まで来た。
とんとん、と軽くノックをしてみる。
……物音はしない。
右手のダンベルを構えつつドアを開けると、ひんやりした空気が流れ出るのを感じる。
バックヤード内にもゾンビは居ない。
よし、ここはそこまで荒らされていないようだ。
手の付けられていないペットボトルの入った段ボールがいくつか重ねられている。
より取り見取りだ。1度に持って帰るのはどだい無理な話だが、ここにあることが分かったのだから何度も通えば問題ない。
僕はリュックに入るだけのミネラルウォーター、野菜ジュース、スポーツドリンクのペットボトルを詰め込みバックヤードを後にした。
改めて店内を見回し、チルドコーナーに残されていたバターとマーガリンを隙間にねじ込む。冷蔵の物はもう駄目になってると思われ見向きもされなかったのだろう。これは助かる。あかりにはカロリーがもっと必要だ。
期待した以上の収穫だった。
落ち着いて行動すれば道中のゾンビたちも恐れるに足りないことも分かった。
次は空いた左手にもバッグを持って来よう。
僕は完全に浮かれてしまっていた。
コンビニの外から猛スピードで突っ込んでくる物の存在に全く気づかないほどに。
ガシャーンという轟音が響いた瞬間、僕は大きな衝撃を受け目の前が暗くなった。