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第5話

 ネグレクトは保護すべき対象の世話を放棄する、れっきとした虐待だ。

 少女の身体には目立つあざやケガがあったわけではないので暴力は振るわれていなかったようだが、その痩せた身体と部屋の有様がネグレクトの被害者であることを物語っていた。それも常軌を逸したレベルのものだ。

 隣部屋の僕が全く気づけなかったくらいだ、きっと彼女はもうずっと前から反抗する気力を失くし助けを求めることも諦めてしまい、この劣悪な環境に閉じ籠もってしまっていたのだろう。

 僕が窓を割って侵入するという暴挙に出たから良かったものの、それがなければ彼女はいずれ孤独と絶望の中で命を落としていたはずだ。

 こんな世界になってしまったことが皮肉にも彼女を救うきっかけとなったのだ。



 僕は気持ちを切り替え、2階の残りの2部屋の物色をすることにした。

 隣の部屋に侵入した時と同じ手順で容易く実行できた。

 今度は中で何者かと遭遇するということもなく、また常識的な部屋であったということもあっていくらかの収穫が得られた。


 シリアル、ペットボトルの清涼飲料水、レトルトパウチのパスタソースとカレー、缶詰のコーンとツナ、ポテトチップス、チョコレート、その他蜂蜜などの甘味料や調味料を見つけることができた。そしてビタミンやミネラルのサプリ。これはかなりありがたい。特に少女に必要なはずだ。

 米や乾燥パスタ、即席麺などもあったが現状ではとても調理できない。

 カセットコンロでもあればよかったのだが残念ながら発見できなかった。



 そうこうしているうちに外は夕暮れに包まれていた。

 部屋に戻ると少女は目を覚まし、マグカップに口をつけていた。


「あ……ごめんなさい……」


 僕を見ると少女はか細い声でそう言い、申し訳なさそうにカップをサイドボードに戻しうつむいてしまった。

 それでも僕は彼女が自分の手でマグカップを持ち中の飲み物を飲めるくらいには回復できて心底ほっとしていた。


「大丈夫、ゆっくり飲んで」


「ごめんなさい……」


「そこにあるパンも食べて。小さくちぎって、少しずつね」


「うん……ごめんなさい……」


 少女は謝るのが癖になっているようだった。

 抑圧される日常が彼女を必要以上に萎縮させ、卑屈にさせてしまったのだろう。心が痛む。


「僕は佐藤一郎。君の部屋の隣に住んでいるんだ。君は?」


「あかり…………早月 さつきあかり」


「あかりちゃん、でいいかな? 僕のことはおじさんで構わない。もう30半ばだからね」


「うん……はい」


 終始おどおどしてはいるが受け答えもきちんとできている。

 心を閉ざしきっているわけではなさそうだし体調の方もこのまま水分と食事を摂れば持ち直せそうで少し安心した。


「あかりちゃんは部屋で倒れていたことは覚えているかい?」


「はい……あの、助けてくれてありがとう」


「いいんだ。それより今外がどうなっているかは知っているかな?」


「外の事はなにも……。ママはずっと前にお仕事で出て行って戻って来ないの」


 あかりが何かゾンビパンデミックの事について知らないか、という当ては外れてしまった。

 まあいい、それはついでだ。

 そうなると、彼女にどう話すべきか。今は必要以上に不安がらせたくない。


「今ね、外は大変なことになっているんだ」


 あかりはこくりとうなずく。


「大勢の人が暴れていて電気や水道も使えなくなっていてね、君のお母さんもきっとそれで帰ってこれないのかもしれない」


 あかりは黙って聞いていた。


「だから、今はここでゆっくり体を直してくれるかな? 君はだいぶ弱っているし、外はとても危険なんだ」


 あかりはまたこくりとうなずき、カップに口を付けた。


「ごめんね、食べ物も大したものは無いんだけど。今はしっかりと食べてベッドで寝ていてほしい」


 あかりはパンを少し齧り、そして目に涙をたたえた。

 助かったという安心の涙なのか、とうとう母親に捨てられてしまったと思った悲しみなのか、それらが混ざって感情が抑えきれないのかもしれない。無理もない。


 あかりがパンを食べきる頃には日は完全に落ち、もう部屋は真っ暗になってしまっていた。

 僕はクローゼットから毛布を取り出し、ソファーで寝ることにした。


 あかりは久しぶりにしゃべって疲れてしまったのか既に寝息をたてている。

 暗闇の中、僕はソファーに腰を掛け自分の半生を思う。



 ――――――――


 僕は物心つく頃に事故で両親を亡くした。

 母方の祖父母は既に他界しており、父方の祖母に引き取られこの街で暮らすことになった。

 両親のことはあまり覚えていない。

 祖母はやさしい人だったが重い病気を患っていて、僕は祖母の介護に青春時代の大半を費やした。

 両親は国公立の学費程度は賄えるくらいの財産と保険金を残してくれてはいたが、趣味といえば家事と介護の合間に家の中でできて金もかからない読書か筋トレの真似事をする程度であった。


 祖母は僕が地元の大学を卒業するのを待っていたかのように病気でこの世を去り、僕は天涯孤独の身となってしまった。

 葬儀では祖父母の古い知り合いだったという地元企業の社長があれこれと世話を焼いてくれて、それが縁でまだ就職先の決まっていなかった僕は彼の経営する会社で働かせてもらうこととなり今に至る。

 決して楽ではないし給料も低く出世は望めず新しい出会いもないが、ほぼ一人部署のような形で仕事をアサインしてくれるこの職場は社交性のない僕には向いていたようだ。


 友人や恋人がいたこともあったが、たいていは僕の受け身な姿勢や辛気臭い態度に辟易としてすぐ僕の前から去っていった。

 家族という最小単位の集団生活すらまともには経験せず、自己完結するような趣味や仕事しかしてこなかった僕にはそういった関係性はうまく構築できなかったのだ。


 周りからすると僕は主体性が無く無目的で死んだように生きる人間のように映るだろう。

 僕は目の前の悲しい現実を当たり前の事として受け入れることに早くから慣れてしまい、夢や希望を抱くことが少しばかり苦手になってしまったのかもしれない。

 きっとこれからもそのようにして生きていくのだろう、そう思っていた。



 ――――――――


 普通の家庭を知らないという点では僕とあかりは同じだったが、その過酷さは比ぶべくもない。

 僕は違う道を選ぶことはできたし、誰かに酷い目にあわされたということもない。僕がもう少し賢ければ行政に頼れることもあっただろう。

 彼女の場合は違う。一方的に悪意ある小さな世界に押し込められたのだ。そんな世界に慣れてしまってはいけない。

 しかしその世界から抜け出せても、今となっては外の世界も地獄のような有様だ。なんとも救いがない。

 そんな世界に対して、僕は改めて憤りを感じた。


 僕はあかりを助けたいと言った。

 始めは目の前の物事を淡々と受け入れる僕の自動的で機械的な反応が出たに過ぎなかったのかもしれない。

 でも今僕は本心からただ彼女を救ってあげたいという願いを抱いてしまったように思う。


 そのためにも、いつまでもここにいてはいけない。安全な場所を探さなくては……。

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