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第4話

 少女はダイニングの壁に背をもたれかけるようにして倒れていた。

 彼女の長い黒髪は腰まで伸び、酷く痩せた身体に着けているのはキャミソールの下着だけであった。


 まさか人が、それもこんな幼い子供がいるとは思ってもみなかった。

 僕がこのアパートに越してきて以来3年、隣の部屋なのにこの少女を見かけたことは一度もなかった。

 それも不思議だが僕がコロナで倒れている間も、その後部屋に籠りゾンビたちを観察している間も、つい先ほどドアや掃き出し窓をノックした時も物音ひとつ聞こえなかった。

 彼女は一体いつからこうしていたのだろうか。


 寝ているのか、それとも既に死んでしまっているのか、少女の目は閉じられたままだ。

 いや、もしかしたらゾンビになっているのかもしれないとまずは警戒しなければならなかった。今頃後ろからガブリとやられていてもおかしくはなかったのだ。

 今になって背筋に冷たいものが走る。

 確認のため僕は恐る恐る声をかける。


「おい、大丈夫か?」


 返事はない。


「君、生きてるか?」


 素っ頓狂な問いかけをしてしまった。

 返事はない。


 噛みつかれでもしたら事だ。気休めかもしれないが鍋つかみを付けたままの右手を前に構え、ゆっくりと少女に近づく。

 ダイニングの床板がミシッと小さな音を立てた。

 すると、わずかに少女の目が開いた。

 僕はハッとして大げさに飛びのいてしまった。


 ……襲ってくる様子はない。そして少女はまだ生きている。いや、まだ分からない。

 僕は体勢を戻して声をかける。


「びっくりさせてごめん、でも僕は怪しい者じゃない」


 窓を割って土足で入ってきた男が怪しくないわけはないのだが今はそんなことを気にしている場合ではない。続けて声をかける。


「起き上がれるかい? 体は動かせる?」


 少女はしばらくしてかすかに首を振るようなそぶりを見せた。


 とりあえず言葉は理解してくれているようなので少なくともゾンビではないようだ。だがほっとしたのも束の間、僕は少女の極めて深刻な状況に気が付いた。

 少女は声を出せるような状態ではなく、その唇は青ざめており見て分かるくらいカサカサと乾燥している。脱水症状か、または栄養失調か。彼女が死に瀕していることは医療の素人である僕の目からしても明らかだった。

 疑問もあるし聞きたいことも山ほどあるが今はそんな場合ではない。

 とにかく急いで対処しなければならない。


「何か飲み物を持ってくるからちょっと待っていて。目を閉じていていいから楽にして」


 少女は軽くこくりとうなずき、目を閉じた。


 僕は玄関の鍵を開け、ベランダから自室に戻った。

 ただの水ではだめだ。スポーツドリンクの類は僕がコロナで倒れている間に飲みきってしまったので、マグカップにミネラルウォーターを注いで砂糖と塩を目分量で加えて混ぜ、少女の元へ戻る。

 僕が近づくと少女はまたゆっくりと目を開けるが焦点は合っておらず朦朧としている様子だ。


「しんどいかもしれないけど、頑張ってこれを飲んで」


 僕はマグカップを少女の口元に付け少しずつ傾けてやる。

 彼女は途中で少しケホケホとむせ込んでしまったが、5分ほどかけてゆっくりと飲み干してくれた。


 僕はやっと人心地ついたが、まだ一安心といえるような状態ではない。

 少女はやはりすぐに動けるようになるわけもなく、ずっと壁に背をつけた同じ姿勢のままだ。

 こんな格好でフローリングの上に直に体を付けていたら今の季節では少し寒いはずだ。


 ガタンという音がした。階下の田中さんだ。真上の部屋となるとかなり響く。

 上でドタバタしていたのを気づかれたか。

 これ以上この少女をこんな環境に置いたままではいけない。

 どうするか少し思案したが、僕は意を決して彼女に問いかける。


 「君を僕の部屋に運ぼうと思うけど、いいかな? 助けてあげたいんだ」


 少女は少し間をおいて、こくりとうなずいた。



 僕は廊下の安全の確認してから少女を抱きかかえた。

 彼女は痛々しいほどに軽くふわりと持ち上げることができ、その手足は強く握れば折れてしまうのではないかと思うほど細かった。


 ベッドに運ばれた少女はほどなくしてかすかな寝息をたて始める。

 当然まだ体中に水分が行きわたりはしていないだろうが喉が潤い温かい布団の中に入ったことで安心したのだろう。今は寝かせておこう。

 僕は彼女が目覚めた時のために先ほどと同じスポーツドリンクもどきを作り、パンと一緒にサイドボードの上に置く。もっと消化にいい食べ物の方が好ましいのだろうが今はこれが精いっぱいだ。



 結果を見ると物資を漁りに行った先で真っ先に物資の消費者だけを拾ってきてしまったことになる。初っ端で出鼻を挫かれた。

 しかし僕はこんな状態の少女を見捨てられるほど打算と利己に振り切った冷酷な合理主義者ではない。それに彼女は僕が寝込んでいた3日間のことを何か少しでも知っているかもしれないという期待はある。

 だが現実は厳しく、差し迫った食糧危機がさらにのっぴきならない事態に陥ったことは明らかだ。

 まだ僕はどこかでいざとなったらこの身だけで外に飛び出せばなんとかゾンビたちを振り切って別の安全な場所に逃げ込めるのではないかと高を括っていたかもしれない。

 しかしこの少女を連れていてはそうはいかない。せめて彼女の体力が回復するまではここから離れることはできない。

 さしあたっては2階の物色の続きだ。食料もそうだが、少女の着替えや何か使えそうな物を見つけたい。彼女が寝ている間にできるだけ済ませておこう。



 少しうるさくしてしまったので不安であったが、ベランダから周囲の様子を探ってみてもゾンビが寄ってきてるようなことはなく安堵した。

 ゴミだらけの隣部屋のベッドルームに戻る。

 ベッドの上に散らかる衣服はどれも大人物で、しかもとても少女が着るような物ではなかった。

 ゴミ袋をかき分けてハンガーラック、クローゼットを探る。

 少女の物と思しき衣服は見つからない。

 バスルーム脇の洗濯機、洗濯カゴを探る。

 やっとのことでくしゃくしゃになった子供用の上下の下着を1着ずつ見つけることができた。

 たったこれだけだ。

 他には部屋中どこを探しても子供が着るような服、読むような本、今の子供ならだれでも持っていそうなスマートフォンやゲーム機、それどころか学校に持っていく教科書や鞄、靴すら何1つ見つけることができなかった。



 ……胸が締め付けられる。

 僕はこれ以上この部屋の空気を吸っていたくない気持ちになった。

 これは、普通ではない。あってはいけない。


 少女の体格からしてそうだったのだ。1週間そこら部屋に籠っていたからってああはならない。

 そして彼女の存在に僕が長いこと気づかなかった理由。

 彼女は長い間母親にネグレクトされていたのだ。

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