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第3話

 籠城4日目の朝。

 どうやら今日も僕は奴らの仲間入りは免れているらしい。

 カーテンの隙間から窓の外を覗く。空はどんよりと曇っている。

 道路に目を向けると、ぎこちなく歩く見覚えのある酷く汚れた上下ジャージ姿の男が目に入った。間違いない。僕が最初にベランダから見た食い殺されたはずの男だ。

 これではもう誤魔化しようがない。

 ご丁寧にも昨日僕が確信した通りの答え合わせをしてくれた。

 この世はどうしようもないくらい、ありふれたゾンビの世界になり果ててしまったのだ。


 僕はベッドで仰向けになり天井を仰ぐ。

 本当なら今日は10日の自宅療養が明けて晴れて出勤の日であった。

 職場までは自転車で15分。銀杏並木を走り、遊歩道を抜け、また別の大通りへ。雑居ビルの裏手の駐車場に自転車を止め、エレベーターが無いので階段で3階まで上る。

 そこにゾンビたちが間断なく配置される。ゴール地点には見知った顔のゾンビたちだ。

 これはとても通勤できそうにもないな、などと頭の中で軽口を叩き僕は目を瞑った。


 さてこれからどうしたものか。

 こんな風になってしまった世の中にこれからなんてあるのだろうか。


 ここまでの間、救助が来る気配もゾンビとなった奴らが活動を停止する様子も見られなかった。

 このままじり貧になって餓死するのは嫌だな。かといって考えなしに外へ出てあの男のような末路を迎えるのもご免こうむりたい。

 アメリカのように銃社会だったら自分で手を下すのも楽だったろうか。包丁の一突きでうまくやれるとも思えない。きっと長く苦しむことになるだろう。首をくくるのが一番現実的かもしれない。運が良ければすぐに失神して苦しまないとも聞くが本当だろうか。

 ただこうして横になっていると、死を意識せずにはいられなかった。


 ……ぐぅと腹が鳴った。


 こんな時でも当然の権利のように僕の胃袋はその存在意義を主張するのだった。

 いいだろう。僕も別に死にたいわけはないのだ。可能な限りは君の要求に応えてやろう。


 パンを齧り、野菜ジュースを飲み干す。

 ……腹が満たされたというにはわびしい質と量だが、それでもろくでもない考えは鳴りを潜めるものだ。

 それにしても、まだストックがあるとはいえ先を考えると食べ物と水が心もとない。

 それにこの薄暗い部屋でただこうしていると気が滅入る一方だ。

 まずはアパートの他の部屋を物色してみよう。やぶれかぶれになるのはその後でいい。


 ――――――――


 そっと玄関のドアを開け、周りを確認してみる。奴らの気配はしない。

 北向きの廊下側は都会的なベランダ側とは違い、畑が広がりその向こうに一軒家がポツンポツンと点在するような田園風景が広がる。それでも2階の廊下は手すりから上は外から丸見えなので屈んで慎重に移動する。

 昨日同様に廊下からエントランスにかけては安全が確保されている。

 今は大人しい田中さんの103号室を除いて1部屋ずつ軽くドアをノックし、ドアノブを回してみるが開いてくれる部屋はない。少し期待していたが残念ながら応答のある部屋もなかった。

 エントランスの郵便受けも探ってみるが今時予備の鍵をそこに隠しておくような不用心な住人はいなかった。行儀よく玄関から入るわけにはいかないようだ。


 そうなると、やはりベランダから侵入するしかない。

 1階はリスクが高すぎるので切り捨てる。奴らがベランダを乗り越えてこれるかは疑問だが、集まられてしまっては逃げようがなくなってしまう。

 そもそもエントランスから外に出てベランダ側へ回る間に発見されてしまう可能性がある時点でアウトだ。

 2階ならば僕の部屋から順々に仕切り板を壊して見て回ることが出来るはずだ。問題は掃き出し窓をどう開けるかだが……。



 僕はいくつか下準備をしてから靴を履いてベランダに出る。

 道路の向こう側には数体のゾンビ化した住民たちが見えた。ベランダの手すりの両サイドは壁になっているのでそこへ隠れれば向こうから僕の姿は見えない。

 万が一これから立てる音を聞かれたとしてもしても僕が見つからなければいずれ興味を失うはずだ。3日間の観察の成果で奴らの認知機能が著しく低下していることは分かっている。


 鼓動が高まる。落ち着け。

 深呼吸をしてから、僕はベランダを隔てる仕切り板の下部を一気に蹴破る。

 バリッという音とともに僕の足は容易く板を突き抜け破片が床に散らばった。

 焦ってはいけない。しばらくそのまま壁際に縮こまり耳を澄ます。

 ……

 物音はしない。死角に潜んでいて音を聞きつけた奴も居なさそうだ。

 残った板の残骸を丁寧に取り除き隣部屋のベランダへの侵入に成功する。

 ほっと一息つく。


 次は窓だ。

 念のためコツコツと何度か窓を叩いてみる。部屋の中から反応はない。

 残念ながら鍵はきちんとかけられている。

 やるしかないようだ。

 僕は内側に鍵のある部分を中心にしてガラスに準備してきた養生テープを張り、手に鍋つかみを嵌めてタオルを巻いたダンベルを持つ。

 そして一気にダンベルをガラスに打ち付ける。

 パンッという乾いた音が響き、いくらかの破片が部屋の中にカシャリと音を立てて落ちた。

 さすがに先ほどよりは大きな音が出て緊張が走る。

 ……

 …………

 ………………

 大丈夫だ。向こう側の奴らもまったく反応していない。

 うまくいった。

 ガラスにできた穴の周囲の破片を取り除き、内側に手を入れ鍵を開けることができた。



 ゆっくりと窓を開け、靴を履いたままの足で部屋の中に侵入する。

 僕の部屋とは違う生活臭とかすかな甘いアロマのような香り、そして生ごみの臭いが鼻を衝く。

 隣の部屋の住人は30代中頃の女性だったはずだ。

 あまり顔を合わせたことはないが、夜に派手目な格好で強めの香水を効かせて出かけていくところを見かけたことがある。きっと夜の仕事をしていたのだろう。


 それにしても酷い有様だ。

 床は足の踏み場もないほど乱雑にゴミ袋が散らばっており、ベッドの上には無造作に脱ぎ捨てられた女性物の衣類がうずたかく積まれている。

 僕の部屋と同じ1DKの間取りとは思えないくらい狭く感じた。

 この様子ではまともな食料や飲み物類は期待できまい。


 僕はゴミ袋をかき分け部屋の奥へと進み、日の差さない薄暗いダイニングに足を踏み入れた。

 ダイニングも部屋と同じように荒れており、テーブルの上には弁当ガラや空のペットボトル、缶などがそのまま放置され、菓子パンやスナックの袋も散乱していた。

 案の定、キッチンの棚から冷蔵庫の中まで口に入れられるような物は一切存在しなかった。


 やれやれ、これだけリスクを冒したのに徒労に終わってしまった。

 ここは早々に諦めてもう1つ隣の部屋にトライしようと思いベランダの方へ向き直った時、僕は目を見開き体が固まってしまった。



 キッチンの床に積まれたゴミ袋の陰に、少女が倒れていた。

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