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第2話

 僕は震える足になんとか言うことを聞かせ、極力音を立てないようにゆっくりとベランダから部屋に戻った。


 一体全体どういうことだ。

 僕が寝込んでいる間にライフラインが止まり、通りには人っ子一人おらず、見つけたと思った矢先にその人は突然暴徒たちに食い殺され……。

 あれはまるでゾンビ映画のような光景だった。悪い冗談にも程がある。

 ならばあの暴徒たちはゾンビなのか? それとも病人なのか? 感染するものなのか? なぜ僕はそうなっていないのか? 先ほどから響くガタガタという音はこのアパート内にも奴らが潜んでいるということか?



 ……落ち着こう。僕はふうっと深呼吸をして状況を整理する。



 暴徒たちの正体は不明だが正気を失っていることは明白だ。

 とにかく今は奴らに見つかったら命の危険があるということだけ考えておこう。

 寝込んでいた3日の間、幸いにも僕は奴らに襲われることも逆に奴らと同じ状態になってしまうこともなく無事であった。

 アパートという割には鍵穴式のオートロックのエントランスがある物件なのも幸運だった。停電になっていても開放されていることはないだろう。

 大人しくしていればこの部屋はまだ安全だ……とも言い切れない。ガタガタと響く音が奴らをおびき寄せてしまうかもしれない。早いうちにせめて場所は特定しておきたい。


 飲み水と食料は今のところ切迫していない。

 近年この国を襲ってきた災害や感染症の反省から保存の効くものは普段から備蓄しておく癖がついていたのがよかった。

 常温保存可能な完全栄養食のパン、エナジーバー、鯖缶、ミネラルウォーターのペットボトル、紙パックの野菜ジュース、コーンスープの粉末がそれぞれ1ダース近く残っている。後はオートミールとホエイプロテインが袋の半分ほど。

 節約すればあと2週間は籠城できるだろう。


 熱や喉の痛みはもう感じられないが体調は万全とは言い難い。

 だが部屋の中で軽い運動はしておいた方がいいかもしれない。

 いざというときこんなに体が訛っていてはあの哀れな男のように転んでお陀仏になりかねない。


 あとはとにかく可能な範囲で情報収集をしなければならない。

 スマートフォンとインターネットも使えない今、僕に与えられている情報ソースはベランダから見える景色だけだ。寝込んでいる間テレビやスマートフォンにまったく触れなかったことが悔やまれる。

 できれば他の住人がとっていたであろう新聞が欲しい。

 こんな事態に至った経緯や被害に遭っている地域に関する記事が載っているかもしれない。


 今後のことはそれからだ。分からない事ばかりのうちにあれこれと思い悩んでも仕方がない。

 そうこうしているうちに救助が来たり事態が収拾する可能性にも期待しつつ、今できることをやるしかないのだ。



 ――――――――


 籠城1日目。


 パンを齧りミネラルウォーターで流し込む。


 ベランダに出て先ほど食い殺された男を見る。

 血の海に沈む男はピクリともしない。

 暴徒は数名を残して散り散りとなっていた。

 ある者は路地に消え、ある者はそのまま通りで所在無げに佇んでいる。

 組織立って動いているようにも人間としての知性が残っているようにも見えない。


 エナジーバーを齧りミネラルウォーターでシェイクしたプロテインを飲む。


 日が落ち薄暗くなってきてもその奴らの様子は変わらない。

 夜になると活発になったり、寝床につくようなことはないようだ。


 軽く全身をストレッチして凝り固まった体をほぐす。

 3日以上風呂に入ってないべたつく体をデオドラントシートで拭う。

 大便はバスタブの中で二重に重ねたゴミ袋へ致すことにした。


 鯖味噌缶を開け野菜ジュースを飲む。

 断続的に鳴り響くガタガタという音で眠れそうにない。

 睡眠薬代わりに風邪薬を飲み無理やり就寝する。


 ――――――――


 籠城2日目。


 ミネラルウォーターでふやかしたオートミールを啜る。


 一晩寝ている間に殺害された男の遺体は道路に血の跡を残して消えていた。

 食い尽くされたのか奴らに持ち去られたのかゾンビよろしく自分で起き上がって去ったのかは分からない。

 時折生存者と見られる人影や車が通りを走り抜けていく。

 その後ろには決まって奴らがワラワラと列を成して追いすがる姿が続く。

 奴らは動くものや大きな音に反応して動いているようだ。

 たどたどしく歩くのがやっとのようで、走っているような姿は見られない。


 エナジーバーを齧りミネラルウォーターでシェイクしたプロテインを飲む。


 月明かりに照らされた道路を眺める。

 奴らは相変わらずとりとめもなく動き続けている。


 日課だった自重トレーニングを軽めに行う。

 体調はだいぶ戻ってきた。


 鯖味付缶を開け野菜ジュースを飲む。

 相変わらずガタガタという音は続く。

 風邪薬を飲み就寝する。


 ――――――――


 籠城3日目。


 パンを齧り、ミネラルウォーターで溶いたコーンスープを流し込む。

 少しザラザラしている。


 どこかで車の盗難防止ブザーが鳴り響く。

 ゾロゾロと奴らがそちらの方向に歩いていくのがベランダから見える。


 外の奴らがブザーに気を取られているだろうことに期待して思い切って部屋を出て1階エントランスの郵便受けに新聞を探しに行く。

 廊下やエントランス内に奴らの姿は見えず、あっけなく僕が自室に引きこもった直後の朝刊が手に入った。


 忌々しい音と振動の発生源も突き止めた。103号室のドアが内側から叩かれているのだ。

 204号室の僕の部屋の下隣の部屋だ。

 鍵を開けドアノブを捻って外に出ることができないほど認知機能が低下しているようだ。

 四六時中鳴り響くのは神経が磨り減るが今すぐ脅威になることはないだろう。



 部屋に戻り鯖水煮缶を開け、醤油を垂らして食べながら新聞に目を通す。



 『欧州各地で暴動広がる――――』

 『新型の感染症か 発症者は著しく凶暴性が高まり非常に危険――――』

 『政府は空港の即時全面閉鎖を閣議決定 入国制限を通達――――』

 『原発緊急停止措置――――』



 新聞ではゾンビという言葉は使われていなかった。

 しかし紙面に踊る深刻な文字群と僕がベランダから見た光景とを合わせて考えると、これは紛れもなくゾンビ・パンデミックという他はない。

 フィクションじみたそんな言葉を現実に認めるわけにはいかなかったのだろう。


 3日前の朝刊が配達されていて夕刊が無かったということは、ヨーロッパで確認できた感染が1日も待たずに伝播して一気にこの国の機能を停止させたということなのか。

 コロナ禍で広まった感染症のにわか知識では考えられない常識外れな感染速度だ。

 きっと逃げ場はもう世界中どこにもないのだろう……。



 ガタガタという音が聞こえてきた。

 103号室の住人は田中といい、朝の出勤時に時折挨拶を交わすくらいの間柄だった。

 僕よりだいぶ若い印象の好青年で、僕とは違い希望と自信に満ちた目をしていたように見えた。

 歳の割にはいい車に乗っていて休日もそれで出かける姿をよく見かけた。

 彼は今何を思い暗い部屋でドアを叩き続けているのだろうか。

 僕もこのままいずれ彼のようにゾンビになってしまうのだろうか。


 缶に残った醤油交じりの煮汁を飲み干す。

 とても体を動かす気分にはなれなかった。

 風邪薬を飲み就寝する。

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