いつもとは違う休日を満喫した一同は、学園に戻ると門の前で別れた。
部屋に戻ったルイスはシャワーを浴びてそのままソファに倒れ込む。夜中からこんなにもはしゃいで騒いだのはいつぶりだろう。
ずぶ濡れになってペタペタと魚を抱えて陸に上がってくるドンを思い出してルイスは笑いを噛み殺した。
「随分と楽しかったようですね?」
「トーマス、お前も来れば良かったのに」
そう言って首だけで振り返ると、トーマスはトレーに冷たい果実水を持って苦笑いを浮かべている。
「私まで着いて行ってしまったら、誰が書類に目を通すんですか?」
「……そうだった。すまん。次はちゃんと終わらせる」
「そうしてください」
しょんぼりと項垂れたルイスはそこら辺に居るまだほんの十六歳の少年だ。しかし十六歳とは言え一国の王子。やるべきことは他の同い年の子達に比べると圧倒的に多い。可哀想だとは思うが、それが王子の、次期王の務めでもある。
「でも、ルイス様が楽しかったようで何よりです。たまには息抜きも必要ですから。ルイス様はアリス様と出会って随分変わられました。それは、キャロライン様もですが」
以前のルイスとキャロラインは絵に描いたような傲慢で階級至上主義者だった。それがノアと出会いアリスと出会った事で民の視線に立つという事を覚えた。彼にとって、この出会いはきっと必然だったのだろう。
「それは俺もそう思う。次は一緒に行こうな、トーマス」
「はい、喜んで」
トーマスはルイスの一言に破顔した。こんな一言さえ、以前の彼からは一度も発せられた事がなかったのだから。
トーマスの心など知らないルイスは、トーマスの笑顔を見て満足したように小さな欠伸を零した。午前三時から夕方まで動いていたのだ。眠くない訳がない。
「ルイス様、眠るのならベッドに移動してください」
「ああ……うん……トーマス……イカリング……お前に……すー……すー」
刺身が美味しかった。カルパッチョも美味しかった。中でもイカリングは格別だった。トーマスにも食べさせたかった。そこまで言いたかったが、ルイスの意識は途中で飛んでしまった。
何やら不審なメッセ―ジを残して寝落ちた主を抱えると、トーマスは首を傾げる。
「……イカ……リング? 私に?」
一瞬イカの形をした指輪を想像したトーマスは慌ててその想像を打ち消した。イカの指輪?いや、いらない。いくらルイスからの贈り物とは言え、それはいらない。起きたらはっきり断っておこう。
カインはソファに転がってお腹の上の猫を撫でながら今日一日の事を思い出していた。
見た事も聞いた事も無い料理を次々に並べていくアリスを見て、やはり異世界から来たのだな、と改めて思ったのだ。
アリスが以前居た世界ではこの世界ほど階級の差はなく、ほとんどの子供たちは皆小さい頃から学校へ通い、読み書きが出来たし計算も出来たという。貧富の差が激しい国ももちろんあったが、ここほどでは無かったそうだ。魔法は無かったが代わりに科学がとても発達していて、アリスの言うゲームというのもこの科学が進歩したからこその産物だったという。
「夢の国だな」
「何が?」
ウサギに餌をやっていたオスカーがカインの呟きに首を傾げた。二人で居る時はお互い主人と従者という役職をついつい忘れがちである。
「うん? いや、アリスの居た世界の話だよ。自由に未来を選べるなんて、羨ましいよ」
「じゃあカインは仕事選べたら何したかったのさ」
「俺? 俺はー……旅したかったんだ。色んな所を見て回って、色んな人や動物見て、色んな仕事したかった」
「……」
それはいわゆる根無し草という奴では。そう思ったが、オスカーは黙っておいた。
カインが宰相になどなりたがっていないのをオスカーは知っている。一日中書斎と執務室を行き来して嘆願書に頭を悩ませてどんどんやつれる父親を幼い頃から見ていたら、そりゃそう思うだろう。
「難しいだろ? そんなの。だからさ、アリスちゃんの世界っていいなぁ~ってちょっと思ったんだよ。料理美味しいし。オスカー、ごめんな」
羨むように笑ったカインに、オスカーも悲し気に微笑んだ。オスカーはカインの従者だ。一蓮托生なので、きっとカインはずっとこんな風に思っていたのだろう。
「カイン、何か勘違いしてる。言っとくけど、カインが根無し草になったって、俺は一生カインの従者でいるつもりだから。俺はカインの従者である前に、君の乳兄弟なんだ。それ忘れないでよ」
キリではないが、オスカーだって他の誰かに仕えようとは思わない。オスカーの主は一生、カインのみなのである。
ウサギをブラッシングしながらそんな事を言うオスカーに、カインは小さな笑みを漏らした。
悩んでも仕方ない。それに、宰相になったって楽しい事は沢山あるはずだ。ルイスが賢王になれば、カインも多少は楽できるだろう。その為にも今は土台作りが大切だ。
「だよな、ごめん。俺もお前でなきゃ嫌だもんな。よし、明日授業終わったら釣り道具揃えよ。オスカーも買う?」
「そんな気に入ったんだ」
「え、だって楽しかったじゃん」
「まあ、そうだけど。いいよ、付き合う」
この後、カインは釣りにドハマりして気づけばアリスやノアよりも釣りに詳しくなっていくのだが、そんな事はまだ誰も知らない。
キャロラインは髪についたバーベキューと潮の匂いをとるのに、いつもよりも念入りにお風呂に入っていた。
「お嬢様、そろそろ上がらないと茹で上がってしまいますよ?」
心配そうに浴室の外からそんな声を掛けて来たミアに返事を返すと、キャロラインは体についた泡を綺麗に流して浴室を出た。そんなキャロラインを待ってましたとばかりにミアが丁寧に拭いてくれる。そしてふと思った。そう言えばアリスの部屋にお風呂はない。けれどこの時間はまだ上級生のお風呂タイムだ。あの子、どうしてるのかしら?
それをミアに告げると、ミアも今気づいたとばかりにハッと息を飲んだ。
「ほ、ほんとですね……ノア様は大丈夫ですが、アリス様とキリさんは……」
「ミア、あなたの風を使って手紙を届けてくれる?」
「はい!」
ミアの使う魔法はメインが『風』だった。この能力はなかなか優秀で、竜巻のような大きな魔法ではないが、ちょっとした洗濯物を乾かしたり、目当ての人物に手紙を届けたりするのに大変便利なのだ。
キャロラインはまだ湿った髪も気にせず、急いで書いた手紙をミアに渡した。
「お願い、この手紙をアリス様の所まで運んでちょうだい」
小さな竜巻を作ったミアはその中に手紙を入れると、窓を開けた。すると、風はまるで生き物のようにフワフワと部屋を出て行く。
その間にミアはキャロラインの長い髪に丁寧に櫛を入れると、今やドンとお揃いになってしまったラベンダーの精油を念入りに髪にもみ込んだ。しばらくして戻ってきた竜巻には、アリスからの返事が入っている。
戻ってきた返事をキャロラインに渡して髪の手入れに戻ろうとしたミアだったが、生憎それは叶わなかった。
「何ですって⁉ ミア、今すぐアリスの所に行くわよ! あの子、止めなきゃ」
「ど、どうしたんですか? アリス様がまた何か……」
その先を言おうとしてミアは口を噤んだ。あのお嬢様はミアには考え着かないような事をしでかす常習犯だ。
「あのおバカ、今から川に行って体洗ってくるって嬉しそうに! 川よ⁉ バカなの⁉ もう秋よ⁉」
まだ残暑が残っているとは言え、夜は流石にそろそろ寒い。それなのにこの時期に川で体を洗うなど、馬鹿の極みだ。いや、でもアリスだ。やりかねない。自分が既に寝間着であることも忘れたキャロラインはそう言ってミアが止めるのも聞かず部屋を飛び出した。
「あれ? キャロライン?」
アリスの部屋に向かう途中、風呂上りであろうノアにばったり出くわしたキャロラインは、ノアに掴みかからんばかりの勢いで迫った。
「ノア! あなた、妹の躾はしっかりなさいな!」
「突然どうしたの? またカーラーつけたまま飛び出してきて。そんな恰好で風邪引くよ?」
「お嬢様~! せめて、せめてこれ羽織ってください~~!」
ミアは取り急ぎ引っ張り出してきたガウンを持ってキャロラインに羽織らせると、眉を吊り上げた。
「いけませんよ! そんな恰好で出られては! アリス様が心配なのは分かりますが、あなたは公爵家の令嬢なんですよ! 出会ったのがノア様だったから良かったものの、これが別の殿方だったらと思うと、私……」
珍しくミアに叱られたキャロラインは頬を赤らめて急いでガウンの前を閉じた。とは言えノアはミアの言う通りキャロラインの恰好には全く興味がないようで、ミアの言葉に頷くだけだ。それはそれで失礼である。
「で、アリスがどうしたって?」
「これよ! ミアに頼んで手紙を送ったらその返事に……」
そう言ってキャロラインはノアの胸に手紙を押し付けた。
けれど手紙を読んだノアはまるで何事もないようにおかしそうに笑っただけだった。
「大丈夫だよ。当然キリに止められてると思うよ。二人とも」
「二人、ですか?」
「うん。アリスとドンね。今頃正座してキリのお説教聞いてるんじゃないかな」
目を閉じればすぐにでも想像できるしょぼくれた二人の背中にノアは笑いを噛み殺した。しかしそれはどうやらノアだけではなかったようで、キャロラインもミアも想像して頷いている。
「ま、まあ、それならいいのよ。アリスに伝えておいてちょうだい。お風呂に困ったらすぐに私の所にいらっしゃいって。間違えても川には飛び込まないでって」
「ふふ、分かった。伝えとくよ。キャロラインも風邪引かないようにね」
「ええ、あなたもね。それじゃあ、おやすみなさい」
そう言って歩き出そうとしたキャロラインの背中にノアの声が聞こえて振り返る。
「ありがとう、キャロライン。おやすみ」
ノアはそれだけ言って立ち去ってしまった。キャロラインはミアと顔を見合わせて大きなため息を落とす。
「ほんっとうに世話の焼ける子ね」
「こればっかりは、はい。私もそう思います。キリさん、凄いですね」
「全くよ。私なら多分一日で卒倒して一週間は寝込むわ」
苦笑いを浮かべたキャロラインにミアも笑って頷いた。
「ところでミア、私、またカーラーがついたままだった?」
「あ、はい。そうですね」
今思い出したと言わんばかりのキャロラインの言葉にミアは頷いてキャロラインの髪からカーラーを二つ取って見せた。それを見たキャロラインは顔を真っ赤にして拳を握りしめる。
「は、早く教えてよ!」
「ご、ごめんなさい!」
握りこぶしを握ったまま不貞腐れたようにそっぽを向いてしまったキャロライン。そんなキャロラインを見てミアは思わず漏れそうになった笑いを堪えるのに必死だった。
本当に見つかったのがノアで良かった。もしも別の誰かなら次の日には学園中で噂されるに違いない。その点ノアなら安心だ。髪にカーラーがついていたぐらい、彼の中ではおそらく何でもない事だろうから。
「ど、どうして笑うのよ?」
「いえ、その、あまりにもお嬢様が可愛らしくて……すみません」
ミアのその言葉にキャロラインはさらに頬を膨らませてそっぽを向いたのは言うまでもない。