そそくさとその場を離れたアリス達を見てミアが申し訳なさそうに視線を伏せた。
「す、すみません」
「何がですか?」
「その、私のせいでアリス様が……」
「お嬢様の下手くそな歌は聴くに堪えないので。ミアさんが気にする事ではありません」
「……ありがとう」
「お礼を言われる筋合いもありません」
いつもの口調だが、ほんの少しだけいつもよりも優しくてミアは微笑んだ。
「キリー、ただいま~」
「ノア様、お帰りなさい。お嬢様はあちらです。釣れましたか?」
「やっぱりこの辺釣りする人あんまり居ないからか、ちょろいちょろい。無事にルイスもカインも釣れて二人とも戦利品持ってアリスんとこ行ったよ」
「そうですか。それでノア様はどうしてここへ?」
キリの質問にノアは困ったように笑った。
「それがね、テンション上がったドンがさ、自分も魚獲ってくる、って海に飛び込んじゃって」
「えっ⁉ だ、大丈夫なんですか⁉」
「あの子、凄いわね」
感心したようなキャロラインにノアは頷いた。
「で、無事イカを獲ってきてね。それはいいんだけどずぶ濡れでさ。ミアさん、ちょっとドン乾かして火の側で温めてやってくれないかな?」
「も、もちろんです! ドンちゃんは⁉」
「連れてくるよ」
「はい!」
ノアはそう言ってその場を立ち去った。さっきまで魚の事で震えていたミアだったが、今はすでにドンの事で頭が一杯のようで、もうすっかり顔色も戻っている。
さて、アリスの方はと言えば皆が持ち込んだ魚の処理をしていた。
「これですよ! これが刺身です!」
「へえ……」
「これが? 完全に生なんだ」
「お、おお……綺麗なもんだな」
「っス」
「キュウ~」
出来上がった鯛の刺身を皿に綺麗に並べると、皆は興味津々で覗き込んでくる。アリスは持参してきた醤油とワサビを小皿に出した。
「いただきます!」
夢にまで見た刺身! アリスは箸で捌きたての刺身をひと切れ抓むとドキドキしながら醤油とワサビをつけて一口。
「んっんん!」
美味しい……思わず涙が浮かんだアリスを見て皆は狼狽える。
「アリス、出来たの? どれどれ」
涙ぐむアリスを他所にドンを引き取りにきたノアが、アリスの箸を借りて刺身をひと切れ抓み醤油とワサビをつけ、何の躊躇いもなく口に入れた。
「す、すごいな。よくそんな躊躇いなく一口で……」
驚愕するルイス達にノアは無言でモグモグと鯛を噛みしめ、一言。
「美味しいね。僕これ結構好きかも」
「良かった! 兄さま、向こうにも持っていってあげて」
ノアの反応を見て何かを確信したアリスは小瓶に入った醤油とワサビと刺身をノアに渡した。
「分かった。ドン、君は向こうで体乾かしながら食べようね」
「キュ!」
「皆も食べてみなよ。あ、でも醤油とワサビの量は気を付けてね」
その一言に皆がそれぞれフォークを手に取った。その間にアリスは既に次の魚に取り掛かっている。
「カイン、食べてみろよ」
「え? ルイスが先に食べてみなって」
「えっと、では僭越ながら俺が……」
一番に勇気を出して刺身を口に入れたのはザカリーだった。流石コック長である。何もつけずにそのまま口に放り込んでしばらく噛んでいたかと思うと、カッと目を見開いた。
「う、うめぇな! 魚は生だとこんな食感なのか!」
「え、美味いんスか?」
「美味い! はっきり言って美味い! 酒飲みてぇ」
そう言って二切れ目に手を伸ばしたザカリーを見て、皆安心したように一切れずつ順番に口に運んだ。
「あ、意外……ほんとに美味いっス」
「食感がいいな。生の魚なんてどうなる事かと思ったが、これはなかなか……」
初めて食べる生魚にルイスは目を丸くした。いくつもの荒波の中で揉まれて育った鯛の身は硬く締まっていて、コリコリグニグニした食感が堪らない。
「もっと生臭いかと思ってたけど、全然そんな事ないね」
生臭さを覚悟していたカインも一口食べて目を丸くした。見た目も透ける程薄く切られている事で美しい。
「これはやはり新鮮でないと駄目なんでしょうね……」
オスカーの父は魚が大好物である。だから幼い時はしょっちゅう川に釣りに連れて行かれた。釣った魚はその場で父が処理して丸焼きにして食べるのだ。少しだけ塩をかけて釣りたてを食べるのは最高の贅沢だといつも言っていた。あの父でさえ、魚を生で食べた事はないはずだ。
ほんのり甘い鯛を食べながら、故郷の父に食べさせてやりたい、などと考えていたオスカーの元にアリスが二枚目の皿を持って現れた。
「そうでもないですよ? 冷凍が出来ればどこでも美味しい刺身が食べられますよ」
「そうなのか⁉」
「はい。ただ、しっかり下処理するのは必須だし、同じ温度でずっと保存しないといけませんけど」
冷凍庫がないこの世界ではそれが一番難しい。キャロラインのように氷を魔法で作る事が出来ても、それをずっと持続出来るような設備が無いのだ。
「難しいね」
そこさえクリアすればいいのだが、なかなかそれが難しいのである。だからこそ、それを逆手にとって新しい食べ方を目当てに海沿いの街や村が少しでも潤えば、と考えた次第なのだ。
そこまで説明したアリスにルイスは頷いた。
「なるほど。確かに海沿いの場所はこれと言った名物もないし、いいかもしれないな」
「はい。旅行をするのに料理を目当てに旅行する層もいるはずです。その場所に合った新鮮な料理は必ず目玉になるはずです。それに、魚は生でなくても美味しい加工品は沢山あるんです。そういう加工食品の中には何カ月も持つものもあります。そういうのはお土産にも向いてますよね?」
「言えてるね。特に高爵位の人達は美食家が多い。そういう人達の中で話題になれば大きな収益になるし、国内で流行れば貿易にも使えるようになるかもしれない。海の無い国も多いから、これは案外大きな武器になるかもしれないよ、ルイス」
「ああ。今のルーデリアは良質な魔法を使う者が多く軍事力はそこそこあるが、それだけだからな。これと言った特産物もないし基本は自給自足で賄えているが、他国に恩を売るような物が無ければ今後心配だ」
ルーデリア国とフォルス公国は海に囲まれた島国だ。特にルーデリアの軍事力は大きい。
けれど、軍事力だけではどうにもならない事もあると、あの宝珠を見て知った。今までのように良質な魔法使いが生まれるからと言ってそこにいつまでも胡坐をかいていては、いつひっくり返されるか分からない。
「軍事力を固めるのも大切だとは思いますが、生きる事に直結する食もとても大切です」
「アリスの言う通りだ。よし、加工品の開発を進めよう。とはいえ、まだ俺達に出来る事は限られているが、王に進言する事は出来る」
「その為にはまず色んな海産物の食べ方を調べないと。アリスちゃん、頼める?」
「もちろんです! 海産物に限らず、山の幸も進めていくつもりです。その為にもこの学園の人たちともっと仲良くならないと! どこにどんなお宝があるか分かりませんからね~げへへ」
せっかくいい感じにまとまりそうだった話だったのに、最後のアリスの一言で全て台無しである。
「途中までお嬢を見直したんだけどなぁ」
「っスね」
「しかしまあ、面白そうな話じゃねぇか! 俺も乗るよ、その話」
「俺も。俺んち実際に何も無さすぎて爵位返上して隣の町に吸収されちゃったんで、他人事とは思えないっス」
ここに、後にルーデリアの最も偉大なコックと呼ばれる事になるザカリー・フィッシャーとスタンリー・タウンゼントが誕生した。
二人はこの後に様々な功績をルーデリアに残すが、出資者であるキャロライン・オーグの名前は頻繁に出したが、決してアイデアマンであるアリス・バセットの名前は出さなかった。それは固くノアに禁じられていたのもあるが、その人となりを出すのを本人たちが躊躇ったためである。終生アリスの名を口にしなかった彼らだが、頻繁に出て来る、猿や悪魔、と言った単語が、彼らがその地位に上り詰めるまでに想像を絶する苦労をしていた事を物語っていた。
「それは心強い! 頼もしい味方だな」
一国の王子に頼もしい、などと言われてはコック達は舞い上がらずにはいられない。いられないのだが、チラリと横目に見えたアリスの不敵な笑みを見てしまって、二人は手放しに喜べなくなってしまった。
その後、朝日が昇り始めるまでにアリスの作った料理は全て食べ尽くされてしまい、朝からもう一度釣りをする羽目になったのだが、ここでは魚を捕まえるコツを掴んだドンが大活躍して、朝食兼昼食と大分早目の夕食はノアの提案通り皆でバーベキューをすることになった。
肉を外で自分で焼いて食べるという行為をした事のないルイスとカイン、キャロラインは最初は戸惑っていたものの、最終的には好きな具材を自ら選んで焼いて食べていたので、それまでの価値観を根底からあっさり覆してしまう食とは本当に恐ろしいものである。
刺身については、いきなり刺身は難しいがカルパッチョとイカリングはザカリーの提案により学園のメニューに追加される事になった。その後イカリングの噂は町にも広がり、イカリングを始めとする揚げ物専門店がちらほらと見かけられるようになるのは、まだ少し先の話だ。