アリスはいつも人類皆兄妹を地でいこうとする。キリは言葉ではいつもアリスの事を脳内お花畑だと言うが、その言葉の裏側には計り知れないほどのアリスへの尊敬と愛情で溢れているという事にノアはとっくの昔に気付いている。
「そうね。そうあるべきだと私は思うわ。アリスとノアとキリの関係を見ていると、従者というよりも本当の家族のようだもの。家族の間に格差があるのはおかしいわ。それに、この学園にルールを課すのなら、全ての人に適用されるべきよ」
「従者も? 彼らは別に学園の生徒という訳ではないだろう?」
従者はあくまで従者だ。どうして従者にまでこのルールを適用しようというのだろう。
「いやいや、この学園に通う者っていうのはさ、生徒だけじゃなくてこの学園に携わっている人達も含めて、だよ。分かってる?」
「分かっているとも! しかし、彼らは別に授業料を払っている訳でもないんだぞ?」
「あのさぁ、まさかとは思うけど、ルイスは従者達の事を物か何かだと思ってない? 彼らは彼らの意思で仕事をして俺達を支えてくれているんだよ? 今の言い方だとまるで彼らが俺達のオマケみたいに聞こえるんだけど」
「実際そうだろう。従者は俺達が居なければ職を失う。学園についてきた者達はいわば主の付属品だろう!」
「本気で言ってる? 今のは全ての従者達への酷い侮辱だぞ!」
珍しく怒鳴ったカインにルイスは驚いたように目を丸くした。
カインはルイスのこういう傲慢な態度が好きではない。いつからこうなってしまったのか。一体どんな教育を受けてきたのかと思わず疑ってしまうほどだ。
こんな風にルイスに怒鳴ったのは生まれて初めてだ。今までずっとルイスのやる事にとりあえず頷いてその為の仕事をするだけだったカインは、自分の中で静かに何かが変わっているのを感じていた。ルイスを友人だと思い、対等の立場で居たいと思うから、多少ぶつかってもいいと思い始めた。
アリスの奨学金の話やアランの色んな才能の話を聞いてワクワクしたのだ。そんな未来がきたら、とても楽しいではないか、と。
誰もが自由に自分の本当にしたい仕事につき、家柄も関係なく誰とでも良好な関係を築ける世界。それはどれほど素晴らしいだろう。
「少しよろしいでしょうか、お二人とも」
「ん? あ、ああ。キリだっけ? なに?」
突然の呼びかけにカインは苛つきながら前髪をかきあげて椅子に座りなおした。
「あ、はい。実は少し前からミアさんと私の食堂のカードを交換しているんです」
「ん?」
「あら」
「なに?」
「!」
皆の反応にキリは小さく頷くと、続きをミアが話し出した。
「最初は他の家の従者も戸惑っていたようですが、最近ではそれについて声をかけられる事も増えました。元々従者達の生まれは私も含めて子爵家、男爵家、平民が多いので、仲が良くなるのも早かったようです」
「今では主の家柄関係なく、従者食堂では食べたいものを自由に食べられるようにとの配慮から、皆が自分のカードを券売機の横に取り付けた箱に入れておくようになったんです。ちなみに、これを言い出したのは私でもミアさんでもありません。従者全員で話し合い、多数決で決まった事です。反対する者は一人もいませんでした」
「そ、それは……一体どんな魔法を使ったんだ? ありえない! 従者は勤めている家柄にこそ価値があると思っているんだろう⁉」
考えられない。ルイスは単純にそう思ったのだが、ルイスの言葉にキリは冷めた目を向けてくる。コイツ、マジか。の目だ。今までこの視線を受けるのはアリスだけだったのだが、どうやらルイスもめでたく仲間入りする事が出来たらしい。
「魔法ではありません。皆の意思です。失礼を承知で言いますがルイス様、階級なんかで色々な事を判断しているのはあなた達のような方達だけだという事を、理解して欲しいです。中には主の家柄こそが自分の評価だと勘違いする者がいるのは否めませんが、ほとんどの者はそうではなく、今の主に仕えている事こそにプライドを持っています。勤めている家柄にプライドを持っている訳ではありません。あまり我々使用人を馬鹿にしたような発言は止めてもらえますか?」
「お、お前! 俺を誰だと思っているんだ⁉ お前のような従者一人が居なくなったところで、こちらは何の痛手もないんだぞ!」
「ルイス、駄目よ。キリの言う事は正しいわ」
「キャロまで!」
激高するルイスを止めようとしたキャロラインの手を振り払ったルイスはキリを睨みつけたが、次の瞬間ビクリと震えた。いつだって無表情のキリが薄く笑ったのだ。それを見たノアとアリスが、あーあ知ーらない、などと言ってそっぽを向く。
「ルイス様、あなたはそう仰いますが、数が多いのは圧倒的に我々の方ですよ? 数の多い方をないがしろにしたらどうなるか分かりますか? 例えば一頭の羊の前に一頭の狼が居たとして、勝つのは狼です。もちろんです。ですが、この羊の数が十では? 五十では? 百では? たった一匹の狼など一瞬で羊の群れに踏みつけられ、屍も残らないでしょう。つまり、そういう事です。貴方が今まで階級が低いからと言って見下していた者達は羊。貴方は狼。争いになったら、どちらが勝つかなんてわかりきった事ですよね? そして民は愚王になどついていきません。さあ、狼の未来はもう見えましたよ? どうします?」
薄く笑ったキリとシンと静まり返る食堂。まだ昼時だったのでそこそこの数の人達が残っていた。それぞれの家の主人も従者も、ルイスとキリの話を固唾を飲んで見守っている。
「……」
ルイスは何も言い返せなくてそっと周りを見渡した。自分の後ろに居る家から連れてきていた従者は、確か伯爵家の者だったはずだ。ふと目を向けると、彼がルイスに向ける視線の中に僅かだが軽蔑の色が浮かんでいた。
ああ、そうか。ルイスの今の発言は彼のプライドをズタズタに引き裂いたのだ。ルイスはずっと勘違いしていた。使用人の価値もまた、勤めている家柄に大きく左右されるのだろうと思い込んでいた。そしていつの間にか使用人も自分と同じ人間なのだという事すら忘れ去ってしまっていたようだ。
「なあ、お前は今日の昼は何を食べたんだ?」
ルイスが後ろの従者に声をかけると、従者は胸に手を当ててハッキリと言った。
「本日は子爵家の食事をとりました。大変美味しかったです。是非、ルイス様も一度ご賞味ください」
「……そうか。ありがとう」
階級で判断するのは貴族だけ。それは胸に深く突き刺さった。カインが怒鳴ったのも当然だ。結局ルイスは色んな事を上辺でしか理解していなかったのだ。
「キリ、それぐらいにしてやって。ルイスがぼろ雑巾みたいだ」
「はい」
頭を下げたキリを見て周りから感嘆の声が漏れた。多くは主人の世話をしに戻っていた従者達だったが、中には生徒であるにも関わらず小さな拍手をしている者達も居た。
「カイン、キャロ、俺は本当に出来損ないだな。理解したつもりになっていただけだった……彼らに対して酷い侮辱の言葉をぶつけてしまった……最低だ……本当にすまない」
キリに言われた言葉、従者の軽蔑するような目がルイスの頭から離れない。
「まあ、俺も言い過ぎたから。でも、ルイスは色々忘れてるみたいだから、昔の事を少し思い出した方がいいよ」
「昔の……事?」
落ち込み俯いたルイスの肩にキャロラインがそっと手を置いた。
「ルイス、あなたはずっとそうやって育ってきた。それはいまさら仕方ないわ。でもあなたは今、ちゃんと知ったでしょう? 皆が何を求めているのか、皆がどれだけ自分の仕事に誇りを持っているのか。彼らはただ仕事だからと言って私達の世話をしてくれているのではないの。時には友人のように、時には家族のように接してくれる彼らは、私達にとっては無くてはならない存在だわ。そこに家柄は関係ない。それはあなたもよく知っている筈よ? だって、あなたの乳母も子爵家出身だったじゃない。それをあなたは恥じた事があって?」
「……」
ルイスの乳母、サマンサは三年前に病気であっさりとこの世を去ってしまった。ずっと第二の母のように慕っていた優しくて大らかな人だった。彼女が子爵家だったからと言ってルイスは彼女を恥じた事などただの一度もない。それどころか、誇りに思っていたのだ。彼女は家庭教師や両親が教えてくれない事を沢山教えてくれたし、寂しい時や辛い時はいつも側に居てくれた。
――家族よりも、家族だった。
『坊ちゃん、いいですか? あなたは一人で生きている訳ではありません。色んな人に支えられて今の坊ちゃんが居るんですよ。だから、感謝を忘れてはいけません。そうすれば皆、あなたの事を大好きになってくれます。ねえ坊ちゃん、優しくて強い君主になってくださいね』
「……サミー……」
口癖のようにルイスの事を心配していたサマンサ。それは死の淵についても変わらなかった。
ルイスにとって何にも代えがたい最高の家族だったのだ。そんな事すら忘れていたなんて、本当にどうかしている。
気づけばルイスの目から涙が零れていた。それを見て食堂に居た者が皆ギョっとしたのは言うまでもない。まさかあのルイスが泣くなんて!
ルイスは皆の驚きなど知りもしないで立ち上がると、ゆっくり頭を下げた。
「本当に、俺が浅はかだった。今まで本当にすまなかった。言いたい事は沢山あると思う。こんな俺だが、必ず信用を取り戻すと誓うから、だからどうか、もう少しだけ時間をくれないか? 幸いこんな俺でも意見をぶつけてくれる優秀な仲間が沢山いる。それから……皆、ここには居ない者達も、いつも支えてくれてありがとう」
振り返り従者に頭を下げた事で、食堂に拍手が沸き起こった。そこかしこのテーブルからルイスに感化されたように、従者に対しての感謝の声が聞こえてくる。
「キリ、聞いてもいいか?」
恐る恐るアリスの後ろに居るキリに声をかけたルイスは、耳を塞いでしまいたい衝動に打ち勝ち口を開いた。
「はい?」
「今、俺に言ったのをアリスに言うとしたら……何て言ってた?」
本当は聞きたくない。けれどこの男はアリスに対してだけは非常に正直だ。そしてその本音こそが彼の真意なのだ。
「言っていいんですか?」
「あ、ああ。頼む」
「では。お嬢様、お嬢様の頭の中に詰まっているのはもしかしておが屑か何かなのでしょうか? あまりにもおめでたすぎませんか? お山の大将とは本当によく言ったものですね。今のお嬢様はさながら小さな山のボス猿にすぎないんですよ。周りにはもっと大きな山はいくつもあるのに、その存在すら忘れてそんな小さな山でボスだと言って喜んだところで、アッという間に足元をすくわれて転落人生まっしぐらです。自分が一番だ、自分が一番偉いのだ、などとゆめゆめ勘違いなさらないよう、お気をつけください。所詮あなたは自分の服すらまともに洗えない、一人では何も出来やしない、しょうもないちっぽけな人間なのですから。でしょうか」
「……」
キリの言葉に食堂はシンと静まり返った。キリの正面ではアリスがふるふると震えている。
「ね、ねえ、何で私、被弾してるの……?」
全く関係ない所で被弾したアリスはまるで自分が言われたかのように涙を浮かべた。そんなアリスをノアはヨシヨシと撫でてくれる。
「もしもお嬢様が言ったならば、という話です。今のは全てルイス様宛てですので誤解なさらないでください。それに、お嬢様の信条は人類皆兄妹。いえ、全ての生物皆兄妹なので、こんな事を言う事は一生無いと思っています。なので、反省するのはルイス様だけでいいんですよ」
「キリがデレた!」
「デレたね!」
つい今しがた涙を浮かべたアリスの目はもう輝いている。そんなアリスを見て小さなため息を漏らしたキリは、ルイスをちらりと見て言った。
「今のはルイス様宛てです。こう見えて、私はどうでもいいと思っている人間とは口も利きません。もちろん、それが誰であっても」
暗にお前には期待している、という事を言いたいのだが、ここにいるどれだけの人間にそれが伝わっているだろうか。まあ、ノアとアリスにだけ伝わっていればいいか。キリはそんな事を考えながらアリスとノアの食器を片付けようとした所を、ルイスにがっちりと手を取られた。
「男に手を握られる趣味はありません」
その手を平然と振り払ったキリは何か言いたそうなルイスに顔を向けた。
「お、俺の従者にならないか⁉」
「はあ⁉ まさかのルイスキリルート⁉」
思わず叫んだアリスの口を慌ててノアが塞ぐと、ルイスを睨んだ。
「言っていい冗談と悪い冗談があるよ? ルイス」
「い、いや! 冗談じゃない。こんな風に俺に言えるのは、キリぐらいしか居ないだろう⁉」
「そんなのキャロラインに言ってもらいないよ。キリ、あれやっていいよ」
「はい。……ルイス様、そういう所が馬鹿にしていると言っているんです。俺はお嬢様にしか仕えないし、ノア様の命令しか聞きません。バセット家が俺の家だし、この人たちが俺の家族なんで。あと、男に仕えるとか死んでも嫌です」
珍しく地を出したキリにアリスとノアはキャアキャア言って喜んだ。こんな態度でも喜んでくれる奇特な主など、そうそう居ない。
はっきりとしたキリの拒絶にルイスは小さな声で謝罪して座り込む。そんなルイスの耳元でそっと従者が囁いてきた。
「私ではいけませんか、ルイス様」
「いや、お前も大事な従者だ、もちろん。当然だろう!」
慌てて顔を上げて彼の顔を見ると、珍しく楽しそうに笑っている。
「そうですか……では、私もキリさんを見習ってちゃんと叱るようにします」
「へ?」
「叱られたいのでしょう? 実は今まで言いたい事は沢山あったので丁度良かったです。ずっと黙っていましたが、サマンサは私の叔母なんです。よく聞かされていましたよ、あなたの話は。叔母はかなり爵位が下の者に嫁ぎましたが、それはもう幸せそうでした。子供には恵まれなかったので、あなたが生まれて乳母の役目を拝命した時、それはもう喜んでいたんですよ。叔母はあなたを本当の息子のように可愛がっていました。そんな叔母が今のあなたを見たら、きっと悲しみます。ですから、私が叔母に変わってしっかり教育しなおしたいと思います。とりあえず、これから私の事は名前でお呼びください。覚えてますか? 私の名前」
「お、覚えているに決まってる! トーマスだろう⁉」
「ええ。では、これからもよろしくお願いします、ルイス様」
「あ、ああ。よろしく頼む……そうか、サミーの……それでお前、いやトーマスの側は居心地がいいんだな」
何かを懐かしむように目を細めたルイスを見てトーマスもまた目を細めた。
「何か……一件落着?」
「みたいだね。さあアリス、午後の授業が始まるよ。アリスは教室遠いんだからそろそろ出た方がいいんじゃない?」
「うん! それじゃあ皆さま、ごきげんよう~」
「ええ。行ってらっしゃい、アリス。廊下は走っちゃ駄目よ!」
「はぁい。キリ、行こ!」
「ええ。それではノア様、皆さま、お先に失礼します」
キャロラインにまるで姉のような声を掛けられてウキウキ歩くアリスの横にピタリとキリがついて歩く。
「うんうん。やっぱりキリはアリスの横でないと」
「そうね。もう見慣れた光景だわ。最初は従者が主人の隣を歩くだなんて、って思ったものだけど、あなたの所ではそれが普通なのね」
「そうだね。どこの家にもそれぞれの事情がある。うちはこれが普通。キリは大事な家族だよ」
いい感じに話がまとまった所でカインがトントンと机を叩いた。
「でさ、次の全校集会でこれ発表する?」
「そうだな。もちろん従者の方も、と言いたいが、そちらでは既に実行しているんだろう?」
「はい。キリさんとミアさんの尽力のおかげだと思います。私も叔母が子爵家に嫁いだので子供の頃はよく叔母の手料理を食べていたんです。だから今日、子爵家の料理を食べて懐かしくて泣きそうになりました」
苦笑いを浮かべたトーマスにルイスは微笑んで頷いた。
「では、次の会議でこれをまとめてそのまま理事に提出しよう。全校集会までに形にしておく」
きっといくらかの生徒からは不満の声が上がるだろう。
けれど、それを収めるのもまたルイスの腕の見せ所なのだ。
「まず手始めに私達が実践してみましょう。ノア、カードを貸してくれる?」
「もちろん」
頷いたノアを見てキャロラインは満足げに笑った。この学園に来てから初めて感じる使命感に、キャロラインもまたワクワクしているのだった。
夕食はやはりすんなりとはいかなかった。特にキャロラインの取り巻きだった子達は表情を歪めていた者も多かったが、それでも付き合ってくれたのは偏に公爵家の力なのだろう。
今まで根付いたモノをすぐに覆すのはやはり難しいものだ。少しずつ時間をかけて変えて行くかないのだろう、きっと。